じじぃの「人の死にざま_482_新井・白石」

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新井白石
近世における最も偉大な百科全書的文化人
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新井白石 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
新井白石は、江戸時代中期に活躍した旗本・政治家・学者である。学問は朱子学歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に渡る。また詩人で多くの漢詩が伝わる。
【生涯】
先祖は、上野国新田郡新井村(群馬県太田市)の土豪だったが、豊臣秀吉の小田原攻めによって没落したといわれている。
貞享3年(1686年)になって朱子学者木下順庵に入門することになった。通常入門には束脩(入学金)がかかるものだが白石にはそれが免ぜられ、順庵も弟子というより客分として遇するほど白石に目にかけていた節がある。順庵の門下生には、白石の他、雨森芳洲、室鳩巣、祇園南海等、後に高名な学者になる者が多く集まっていたため、順庵に入門できたことは白石にとって大変意義があった。
師匠の順庵は白石の才能を見込んで、加賀藩への仕官を見つけてきてくれた。白石も後年、「加州は天下の書府」と賞賛しているように、加賀藩前田綱紀のもとで学問が盛んであった。ところが同門の岡島忠四郎から「加賀には年老いた母がいる。どうか、貴殿の代わりに私を推薦してくれるよう先生(順庵)に取り次いでいただけないでしょうか」と頼まれ、岡島にこのポストを譲った。
その後、順庵は元禄6年(1693年)、甲府藩への仕官を推挙した。白石が37歳の時である。甲府藩主徳川綱豊は当初林家に弟子の推薦を依頼したが、当時綱豊は将軍徳川綱吉から疎んじられており、林家からは綱豊に将来性なしと見限られ断られてしまった。そこで順庵の方に推挙を依頼してきたのである。
徳川綱吉は多額の支出をして寺社を建立して祈祷し、生類憐れみの令を出したが、結局子宝に恵まれず、徳川綱豊を将軍世子として西丸に入れた。
宝永6年(1710年)綱豊は名を家宣と改め、将軍となった。家宣は将軍に就任すると、側用人の松平輝貞・忠周を解任し、大学頭林信篤を抑えて、白石にその職責の大半を代行させた。ここに白石は甲府家から白石や間部詮房を自身の側近として、後に正徳の治と呼ばれるようになる政治改革を行った。白石の身分は500石取り(のち正徳元年1000石に加増)の本丸寄合、すなわち無役の旗本なので、御用部屋に入るわけにはいかない。そこで家宣からの諮問を側用人間部が白石に回送し、それに答えるという形を取った。幕閣でも側用人でもない一介の旗本が、将軍侍講として幕政の運営にこれほどまでに関与したのは、この白石をおいて他に例を見ない。
白石の政策は旧来の悪弊を正す理にかなったものではあったが、「東照神君以来の祖法変ずべからず」とする幕閣とは齟齬をきたし、やがて両者の間には深刻な軋轢が生じるようになる。自らが主張することに信念を抱き、誰が何を言って反対しても臆することなく、最後には「上様の御意」でその意見が通るので、白石は旧守派の幕臣からは「鬼」と呼ばれて恐れられるようになった。
家宣が死ぬと、その子7代将軍徳川家継のもとでも引き続き間部と共に政権を担当することになったが、幼君を守り立てての政局運営は困難を極めた。幕閣や譜代大名の抵抗も徐々に激しくなり、家継が死んで8代将軍に徳川吉宗が就くと白石は失脚、公的な政治活動から退いた。
晩年はこうした不遇の中で著作活動に勤しみ、諸大名の家系図を整理した『藩翰譜』、『読史余論』、古代史について書いた『古史通』、また白石自身「奇会」と断言したシドッチへの尋問後に記した西洋事情の書『西洋紀聞』『采覧異言』、さらに琉球使節程順則・名護親方寵文や向受祐・玉城親方朝薫など)らとの会談で得た情報等をまとめた『南島志』や、回想録『折たく柴の記』などを残した。また、著書『古史通或問』の中では古代史上最大の謎といえる邪馬台国の位置は大和国と主張し、この邪馬台国近畿説が後に本居宣長が主張した邪馬台国九州説とともに双璧を成す説となっている。
『采覧異言』の終訂(自己添削)が完了した5、6日後の享保10年(1725年)5月19日死去。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
新井白石 (1657-1725) 68歳で死亡 (一部抜粋しています)
たまたま儒臣として仕えた甲府中納言綱豊卿が6代将軍家宣(いえのぶ)となるや、その政治顧問として白石は政治の改革に全智能をかたむけた。
しかし、博識と自信に加えて、その近代性、合理性、徹底性、独創性は、当時においてのみならず徳川時代を通じて稀有(けう)のものであり、むしろ日本人離れしているともいうべき異質性を持っていた。当然彼は孤立の戦いを戦わねばならなかった。
不幸なことに、ただひとり彼を信任した家宣は、将軍たることわずか3年余りで没した。その幼児家継(いえつぐ)もまた3年余で死んだ。果然、白石は排斥の嵐の中に立った。
「万里の紅流片月(へんげつ)狐なり
 南に飛ぶ雁(かり)は白雲と倶(とも)にす
 当時滄浪(そうろう)の曲有るにあらずんば
 憔悴(しょうすい)誰か憐れまん楚の大夫」
8大将軍吉宗が立ち、完全に彼が失脚した享保元年ごろのみずからの心境を語る詩である。ときに彼は59歳であった。
楚の大夫とは、楚に仕え、あまりに率直な正論を吐いたために追放され、汨羅(べきら)の淵に身をト応じた屈原のことである。
彼はそれから身をひいて、孤独な生活の中にただ学問的な著作にふけった。吉宗が朝鮮聘使(へいし)のことについて諮問(しもん)の使者をよこしたときも、彼は「老いて、若き時のことは少しも記憶し申さず」といって、何も答えなかった。
白石の健康は65歳ごろから急速に衰えた。
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その翌年には、「ただただなにとぞ名のなくなり候ようにと心がけ候」とか、「死し候已後(いご)100年も200年も後の人々の公論に身を任(まか)せ候より外これ無く候」とかいう手紙を書いている。彼を覆っていたのは、深い諦念であったろう。
そして、死に数日前、『采覧異言(さいらんいげん)』の改稿を終え、享保10年5月19日にひっそりと死んだ。