じじぃの「人の死にざま_480_阪田・三吉」

阪田三吉 - あのひと検索 SPYSEE
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王将 動画 YouTube
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shogi - 将棋 動画 YouTube
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阪田三吉 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
阪田三吉は、明治から昭和初期の将棋棋士。堺県大鳥郡舳松村(現在の大阪府堺市堺区協和町)出身。旧戸籍では坂田三吉(読みは同じ)。
【生涯】
被差別部落出身とされる。生業の草履表づくりを手伝いながら、将棋を覚える。1886年明治16年)ごろ、日本橋の履き物問屋に丁稚奉公、町角の縁台将棋によく顔を出し大人を負かせるなど早熟の天才振りを見せていた。だが、将棋に夢中になるあまり背負っていた奉公先の子供を負傷させ、暇を出されたといわれている。
1913年(大正2年)4月、関根金次郎八段と対局(関根の香落ち)して勝利をする。この対局において後に阪田は『銀が泣いている』という言葉を残している。1917年(大正5年)に八段となり、翌年にかけて関根と平手で6局の対局をし4勝2敗と勝ち越す。だが、関根の一番弟子の土居市太郎七段に破れた。
1921年(大正10年)5月、小野五平名人死去を受け、関根が「十三世名人」を襲位した。阪田も関根の名人襲位には賛成していた。だが、1925年(大正14年)3月、京阪神の財界有力者八十余名の主唱者により名人に推薦され、「名人」を名乗る。
没後、1955年(昭和30年)、日本将棋連盟から名人・王将の称号が贈られた。大阪市浪速区の新世界の通天閣下には「王将」の碑がある。墓は大阪府豊中市の服部霊園。阪田三吉墓は清水次郎長の墓と同じ様に扱われてか、将棋の駒型の墓石を金槌で打ち欠き、その破片を勝守りとする人が絶えず、結果として墓石自体がひどく傷付けられた状態にある。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
坂田三吉(さかたさんきち) (1870-1946) 76歳で死亡 (一部抜粋しています)
「吹けば飛ぶよな将棋の駒に・・・・」−−「王将」で有名な(ただし、娘の美代は「実際の父とは違う映画や芝居の『王将』はあんまり見たくありません」という)坂田三吉は、太平洋戦争が終わった翌年の夏、食当りから腸カタルを引き起こして、みるみる弱った。それで将棋の弟子である病院長が入院させようと車までよこしたが、三吉は入院をいやがって承知しなかった。
死ぬ2日前の夕方、往診に来た近所の医者が、もうだめだから親戚を呼ぶようにといったが、当人は高いびきをかいて寝ているので、ただ1人家に残っていた娘の美代は、まだ大丈夫だとためらっているうちに、2日後、気がつくと三吉の息はとまって、安らかな顔で死んでいた。昭和21年7月23日のことであった。
彼に日本将棋連盟から正式に名人位、王将位が贈られたのは、歿後7年経過してからのことであった。
彼の実像は娘の美代のいう通り映画や芝居の虚像とはかけ離れていて、大阪でいわゆるとぼけ阿保ともいうべき人物であったが、東京の将棋界に対抗して「関西名人」を名乗って物議をかもすなど奇矯(ききょう)なところのあったことは事実で、知人中村浩に「わてが死んだら、わてをきっと芝居や活動写真にしよりまっせ、見ててみなはれ」といったこともあったという。

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阪田三吉 Google 検索
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