じじぃの「人の死にざま_464_朴・正煕」

朴正煕 - あのひと検索 SPYSEE
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朴正煕 1997 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=U_L6ZJhQnnU
朴正煕 ウィキペディアWikipedia) より
朴正煕(パク・チョンヒ)は、大韓民国の軍人・政治家。クーデターで政権を奪取して第5〜9代大統領(在任:1963年 - 1979年)を務め、軍事独裁権威主義体制を築いた。
日本語読みは「ぼく・せいき」。日本名は高木正雄。日本では1984年の全斗煥大統領訪日を契機に韓国人人名の現地読み化が行われるようになったが、昔通りの漢字読みも一般的である。ハンナラ党元代表朴槿恵は長女。【出自】
朴正煕は、日本統治下の朝鮮の慶尚北道善山郡亀尾(クミ、現在の亀尾市)で、貧しい農村部家庭の5男2女の末子として生まれた。父親は科挙に合格したが、韓国が併合された後に没落し、墓守をしていた。小学生の頃は、学校に弁当を持って行けないほど生活は苦しく、後世、酒に酔うたびに友人や側近に「俺は本当の貧しさを知っている」と語っていたという。家が貧しいうえに病弱だったが、亀尾小学校を優等で卒業。大邱師範学校を卒業し、慶北聞慶国民学校で3年間教師をした後、日本国籍のまま満州国軍の新京軍官学校で学び、同校を首席で卒業する。優秀な成績のため、特に選ばれて日本の陸軍士官学校に留学した。その後、創氏改名によって高木正雄と名乗った。1944年に日本の陸軍士官学校を3位の成績で卒業(57期)し、終戦時は満州国軍中尉だった。朴正煕が旧日本陸軍の軍人だったという誤解があるが、上記のように満州国の軍人として日本の士官学校に派遣留学を命じられたに過ぎず、日本軍人として任官したことはない。
【クーデター】
1961年5月16日、張都暎陸軍中将(当時)を議長に立てて「軍事革命委員会」を名乗り、軍事クーデターを起こした(5・16軍事クーデター)。反共親米、腐敗と旧悪の一掃、経済再建などを決起の理由とした。決起に関する謀議は李承晩が退陣に追い込まれた四月革命の過程と同時進行だったことがわかっている。学生たちが南北朝鮮会談を開こうとする政治的騒乱のなか、軍が突然、政治の舞台に踊り出たことは多くを驚かせた。軍は朝鮮の政治史において例を見ない巨大勢力だった。
当時、陸軍少将の階級にあり第2軍副司令官だった朴正煕は、陸軍士官学校第8期生を中心とするグループに推されてクーデターグループのリーダーになった。陸士8期生は解放後はじめて韓国が自前で訓練した軍人たちであり、その中心人物が金鍾泌だった。なお、陸軍士官学校11期生には後に大統領になる全斗煥盧泰愚が含まれている。これら軍人たちには地方の貧困層出身者が多く、彼らの信望を集めていたのが朴正煕であった。
【大統領としての施策】
1963年8月に軍を退役し、大統領選に出馬。大統領の座に就く。
1965年6月22日には、日本との国交を回復(日韓基本条約)。日韓基本条約は植民地支配を清算するものでなく、僅かばかりの金で国を売るものであるとして、民主化活動家の大学生に市民も加わった韓国民と野党議員たちの激しい抵抗のなか、日本との条約締結が強行された。
【政権末期、そして暗殺】
自分を脅かす者は政敵ばかりか与党の有力者であっても退け、独裁体制を維持し続けていた。
釜山・馬山で大規模な民主化デモ(釜馬民主抗争)が起こっていた1979年10月26日、側近のKCIA部長金載圭によって射殺された(10・26事件)。享年61。国葬が執り行われ、遺体は国立墓地顕忠院に葬られている。なお、朴正煕は1985年には自ら下野すると側近に話していたという。
【肯定的な評価】
朴正煕の死後、早くから目をかけてきた軍人大統領が2代続き、その開発独裁路線を継承し強圧的な独裁政治は批判され続けていたが、民主化後その達成感によって運動が退潮しはじめたこと、生活が豊かになったと国民が感じ始めたことで、独裁下に於いて実現した「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を成し遂げ、韓国を中華民国(台湾)・シンガポール・香港と並ぶ「アジア四小龍の一つ」とまで言わしめる事となる足がかりを作った事や、治安の良さを再評価する動きが出て来た。特に政敵であった金大中が、大統領選を控えて保守票を取り込むために朴正煕時代の経済発展を評価するに至って、韓国近代化の礎を築いたという声が高まった。
終生のライバルであった北朝鮮金日成に体制競争を挑み決定的な経済格差を付け、経済格差によって南北の力関係が大きく変化したことは東アジア地域の国際関係にも変化をもたらした。経済パフォーマンスを体制の正統性の根拠としてアピールしたのはむしろ朴正煕登場以前の北朝鮮であり、そのため北朝鮮は経済面のみならず人民に対して支配を正当化するうえでも慢性的な苦境に陥った。
支持者からは「独裁政権」ではあるものの、日本から経済援助を引き出し、韓国に秩序と経済発展をもたらしたのも事実であり、見直すべきとの声も根強い。ネットユーザーからは「親日派として罵倒するのは問題がある」、「朴正煕大統領が親日派だったら、日本統治時代に生まれ育ち、日本の教育を受けた人はみんな親日派である」、「親日派であるかもしれないが、国民生活の向上に力を入れたことは評価すべき」、「韓国が発展できる基盤を作ったことは重要」と、功と過を正しく評価すべきとの声も多くあがっている。
また、独裁的でありながら彼の私生活はいたって質素潔癖であり、ネポティズム縁故採用)も嫌っており、韓国大統領の中で極めて清廉潔白な大統領とされ、汚職も見られず、彼の死後には私有財産がほとんどなかった。そのため保守派を中心に彼の治世を懐かしむ声さえ存在し、韓国の発展に最も大きく貢献した韓国歴代大統領ともいわれている。韓国大統領の人気ランキングでは、朴正煕がダントツ1位の75.8%、金大中が2位の12.9%に選ばれている。
娘の朴槿恵が2012年大統領選挙に保守派のセヌリ党から立候補して勝利し、大統領になれたのも、朴正煕への国民の回顧が助けになった。
【逸話など】
日本との関係を真剣に考えていたとされ、竹島をめぐる領有権問題について「両国友好のためにあんな島など沈めてしまえ」と発言したとも言われている。
酒を飲んで機嫌が良くなると、よく日本の軍歌を歌っていたと言われている。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
朴正煕 (1917-1979) 61歳で死亡。 (一部抜粋しています)
1961年、クーデターによって李承晩(りしょうばん)政府を倒し、やがて韓国大統領として約18年間にわたり絶対的独裁の権力をふるった朴正煕は、1979年10月26日夕刻、KCIA(韓国中央情報局)の部長金載圭、警護室長車知茢とともに、宮井洞の中央情報部の食堂で会食していたが、当時起こっていた釜山、馬山の総蘭に対する処置について、車と金の口論となり、朴大統領もまた金を非難した。金載圭はいちど室外に出て、三八口径リボルバー拳銃を持って来て、7時35分、いきなり大統領と車警護室長を射殺した。
金載圭は、ついで、1980年に起こった広州叛乱の最中の5月24日絞首刑に処せられた。金の動機、射殺の状況など、正確な真相はよくわからない。

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