じじぃの「人の死にざま_461_根本・博」

根本博 - あのひと検索 SPYSEE
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冷戰時期的金門島 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=wGUAAVcgCdI
金門島(台湾)の様子 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=9AfL8bWLTR8
根本博 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
根本博(ねもとひろし、1891年(明治24年)6月6日-1966年(昭和41年)5月24日)は、日本陸軍の軍人で陸軍中将功三級。福島県出身。仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校卒、 陸士23期。陸大34期。
終戦時にはモンゴル(当時は蒙古聯合自治政府)に駐屯していた駐蒙軍司令官として、終戦後もなお侵攻を止めないソ連軍の攻撃から、蒙古聯合自治政府内の張家口付近に滞在する邦人4万人を救った。復員後1949年に台湾へ渡り、金門島における戦いを指揮して、中国人民解放軍を撃破、現在に至る台湾の分離確定に寄与した。
【経歴】
陸大卒業後、原隊復帰を経て、陸軍中央等において主に支那畑を歩む。
二・二六事件後の陸軍再編により原隊の連隊長に就任、日中戦争後は専門である支那畑に復帰、終戦に至るまで中国の現地司令部における参謀長や司令官を長らく務めた。
1944年11月、駐蒙軍司令官に就任。翌1945年8月のソ連軍の満州侵攻は、8月15日の日本降伏後も止まらず、同地域に滞在していた同胞4万人の命が危機に晒されていた。ソ連軍への抗戦は罪に問われる可能性もあったが、生長の家を信仰していた根本は『生命の実相』よりそのような形式にとらわれる必要はないと考え、罪を問われた際は一切の責任を負って自分が腹を切れば済む事だと覚悟を決め、根本は「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う」と、日本軍守備隊に対して命令を下した。
復員後の1949年6月、東京から、元上海の貿易商であった明石元長の仲介で、通訳の吉村是二とともに宮崎県延岡市の沿岸から極秘裡に台湾へ渡り、中国名「林保源」として湯恩伯の第5軍管区司令官顧問、中将に任命された。同年10月には、国民政府が台湾へ移り、中華人民共和国成立後、最初の本格的な戦いである、本土から数kmしか離れていない金門島における古寧頭の戦いを指揮、上陸してきた中国人民解放軍を破り、同島を死守した。この時金門島に2万とも3万とも言われる人民解放軍が上陸した際、根本はこれを8千から1万の兵を率いて邀撃殲滅したとされる(一方で、金門島の戦いで根本を含めた旧日本軍将校は、現場指揮官として兵を直接率いたのではなく、あくまで助言に徹し、表面には出ないようにしていたとの証言もある)。当時、根本らの台湾密航は国会でも追及されたが、当時の吉田茂首相は、そのような事実があるかもしれないと答弁を濁している。
根本帰国後も、この島を巡って激戦(金門砲戦)が展開されたが、台湾側は人民解放軍の攻撃を凌ぎ、現在に至る台湾の分離が確定した。根本は、蒋介石が敗戦時の日本軍捕虜に対し人道的に対応し、国に賠償金を要求しなかった事に恩義を感じていたとも言われている。

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台湾・金門島の人々から"戦神"と呼ばれる日本人とは...
8月15日、フジテレビ ザ・ノンフィクション 『父は、なぜ海を渡ったのか』では、台湾・金門島で今も"戦神"として語り継がれるひとりの日本人の生き方に迫る!
台湾の馬総統が、多くの退役軍人とともにこの戦役に協力したという第七代台湾総督・明石元二郎の孫にあたる明石元紹さんと根本中将の副官兼通訳であった吉村是二さんのご子息吉村勝行さんを金門島の式典に招待していました。
そして、報道陣のいるなか馬総統はこの2人の日本人に歩みより日本語で「ようこそ台湾へ」と語りかけ握手を求めました。
http://www.excite.co.jp/News/tv/20100813/Dogatch_10130810556.html
『Voice』 1月号 山本七平賞 受賞作「この命、義に捧ぐ」 門田隆将(ノンフィクション作家)
受賞の言葉 (一部抜粋しています)
このたびはたいへん権威ある賞をいただき、感激しております。私は、毅然と生きた日本人の姿を描くことを大きなテーマの柱にしております。
私にとって根本博陸軍中将という存在は、たいへん魅力的なものでした。終戦時、駐蒙軍司令官として張家口にあった根本将軍は、殺到するソ連軍から在留邦人4万人の生命を守り抜く決断をし、戦争犯罪人となることを恐れず、本国からの武装解除命令を拒否して、これを敢然と実行に移しました。そして、このとき在留邦人と日本の将兵を守り、日本にいち早く帰還させることに強力してくれた蒋介石への恩義を返すために、昭和24年、小さな漁船で密航してまで国共内戦の金門戦争に身を投じました。
ご家族が保管しておられた根本さんの詳細な手記に触れたとき、私はこの人物を自分の手でどうしても書き残さなければならないと思いました。「義」を返すための壮絶な生きざまは、本来の日本人の姿そのもののような気がしてならなかったのです。
しかし、台湾の複雑な歴史の中で、根本将軍(台湾名・林保源)の存在は一切秘密にされており、そのため、60年の時を経た台湾における調査は困難を極めました。台湾のメディアを使うなど、さまざまなアプローチを重ねて、やっと根本将軍の金門島での姿を浮かび上がらせることができました。このたび、高名な選考委員の先生方によってきわめて学術的要素の強い賞をいただけたことは何よりの喜びです。

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根本博 Google 検索
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