じじぃの「人の死にざま_460_魯迅」

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阿Q正伝 動画 YouTube
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上海市民の特別な場所【魯迅公園 Lu Xun Memorial and Gravesite】 動画 YouTube
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魯迅 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
魯迅は、中国の小説家、翻訳家、思想家。本名は周樹人。ペンネームの魯は母親の姓だという。浙江省紹興市出身。弟に文学者・日本文化研究者の周作人、生物学者の周建人(1888-1984)がいる。
代表作に『阿Q正伝』、『狂人日記』など。短編作である『狂人日記』は旧来の中国文学が文語主体な中で口語を主体とする点、被害妄想狂の心理を実にリアルに描写する点において画期的だった。なお、魯迅の中学校の時の良友に本物の迫害妄想患者が存在し、彼を観察したことが、この作品を着想するヒントとなったと言われている。
【人物・経歴】
牛込の日本語学校弘文学院にて松本亀次郎に日本語を学び、1904年9月から仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学する。その間日露戦争について、授業中に戦争報道のニュース映画を観る機会があった。その映画では、ロシア軍スパイの中国人が日本人によって、間諜(軍事スパイ)として処刑され、さらに同胞である中国人が処刑される様を喝采して見物する姿があった。その情景と日本人の反応を見て、中国人を救うのは医学による治療ではなく文学による精神の改造だと考えたのだという(『吶喊自序』)。学校における細菌学のスライドを用いた授業において、当時の時事断片が余り時間に上映され、その中に処刑の場面があった、という記述もある(『藤野先生』)。
1906年3月に仙台医専を退学し、東京での生活を始めるが、文筆は滞っていた。そこに友人の金心異に小説を書くよう勧められた。
帰国後は、杭州紹興などを経て、1912年、南京において中華民国臨時政府教育部員となる。さらに政府の移転に伴い北京へ転居。1918年雑誌『新青年』に『狂人日記』を発表する。以来、「魯迅」およびその他多くのペンネームを用いて文筆活動を本格化した。
また、北京大学などで非常勤講師として中国小説史の講義を担当した。中国の伝統的文学観においては、小説は歴史や詩文に比べて一段低いものと見なされ、研究に値しないとされてきたのだが、魯迅は早くから散逸していた小説の断片を集めるなど実証的な基礎作業を進めていた。その蓄積にもとづいて神話伝説から清末までの小説史を論じたものが『中国小説史略』(1924年)である。中国最初の小説史であり、今日でもこの分野を語る際の必読書となっている。
阿Q正伝 あらすじ】
時代が清から中華民国へ変わろうとする辛亥革命の時期、中国のある小さな村に、村の半端仕事をしてはその日暮らしをする本名すらはっきりしない日雇いの阿Qという男がいた。彼は金も家もなく、女性にも縁がなく、字も読めず、容姿も不細工という村では最下層の存在で、村の閑人たちから馬鹿にされている立場であった。だが阿Qは非常にプライドが高く、<精神勝利法>と呼ばれる独自の思考法を持っており、どんなに罵られようが、日雇い仲間と喧嘩して負けようが、結果を都合の良いように取り替え心の中では自分の勝利としていた。ある日、阿Qは村の金持ちである趙家の女中に劣情を催し、言い寄ろうとして逃げられた上に趙の旦那の怒りを買い、村民からまったく相手にされなくなる。彼は食うに困り、盗みを働き、村から逃亡同然の生活を続ける中で、革命党が近くの町にやってきた事を耳にし「革命」に便乗して意味もわからぬまま騒ぐが、逆に革命派の趙家略奪に加担したと無実の疑いをかけられて逮捕され、弁明すらできず哀れ銃殺されてしまう。
阿Q正伝 評価】
無知蒙昧な愚民の典型である架空の中国国民を描き出すことで、当時の中国社会の病理を鋭く告発した作品として評価された。特にこの作品を気に入った毛沢東が談話でしばしば引き合いに出し、魯迅の名を大いに高めた。後に中国の高校教科書に採用されたため、中国国民は誰でも知る話となっている。国外でも数ヵ国語に翻訳されて出版されている。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
魯迅(ろじん) (1881-1936) 55歳で死亡。 (一部抜粋しています)
魯迅は、日露戦争のころ日本の仙台医専に学んでいたが、たまたま戦争実写映画で、ロシア軍のスパイとなった中国人が、日本軍に銃殺され、それを見物している中国人たちが喝采(かっさい)している光景を見、「愚弱な国民は、医学によって救うに値しない。それより精神の改造が先決だ」と悟って医学を捨て、中国に帰った。
その後彼は、『狂人日記』『阿Q正伝』などを書いて中国の近代文学創始者となり、さらにマルクス主義の信奉者となった。
1927年から上海に定住し、ソ連文革の紹介や評論に専心した。彼は以前から結核をやみ、かつ心臓喘息(ぜんそく)の持病を持っていたのに、大変なヘビースモーカーで、煙草から煙草へ火を移して、マッチを使わなかったほどであった。
ノーベル賞も辞退し、また自叙伝を書くことを勧められたとき「私は自叙伝を書くつもりはないし、誰かに書いてもらいたくもない。私の生涯にはとりたてるようなことは何もない。私の伝記程度のものなら、中国では4億も集まり、図書館を一杯にしてしまうだろう」といって取り合わなかったほど謙虚な魯迅は、一方で、いちど遺言を書いたとき、「キリスト教徒は臨終ですべてを許すそうだが、私には敵が多い。恨むなら勝手に恨め。こちらも誰ひとり許しはせぬ」と書いたほどの強い人でもあった。
1936年(昭和11年)10月17日午後、彼は上海新公園へ散歩にいったが、途中急に気温が下がり、風をひいた。以前からの持病もあってこれが悪化し、親友の書店主内山完造に電話してかかりつけの日本人医須藤五百二の来診を受けたが、激しい咳はやまなかった。
そして19日午前5時25分、激しい咳のために苦しんで身体を反転させたとたんに息をひきとった。
持病の肺結核が進行し、これに胸膜炎が合併し、気腫性嚢胞(のうほう)が生じ、これが破裂して致命的な結果を呼んだものと思われる。
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彼はかねてから家族に、「葬式には人から金銭を受けるな。記念事業などは無用である。私のことは早く忘れて、それぞれ自分の生活の道を歩め」と遺言していたが、葬式には6000人の学生や労働者が参集した。

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