じじぃの「人の生きざま_49_大鵬」

大相撲の元横綱大鵬納谷幸喜さんが死去 (追加) 2013.1.19 MSN産経ニュース
大相撲の第48代横綱で同じく名横綱柏戸と「柏鵬時代」と呼ばれる黄金期を築いた元横綱大鵬納谷幸喜さんが19日午後3時15分、東京都内の病院で死去した。72歳だった。
http://sankei.jp.msn.com/sports/news/130119/mrt13011916030000-n1.htm
大鵬幸喜 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E5%A4%A7%E9%B5%AC%E5%B9%B8%E5%96%9C/1548/
大鵬天皇賜杯 動画 YouTube
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柏鵬時代 柏戸 VS 大鵬 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=U6gl3X5AeWo&feature=related
大鵬幸喜 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
大鵬幸喜(たいほうこうき、本名:納谷幸喜(なやこうき)、1940年(昭和15年)5月29日 - )は、元大相撲力士。第48代横綱である。身長187cm。血液型はB型。樺太敷香郡敷香町出身で、北海道川上郡弟子屈町川湯温泉で育った。
【人物】
ウクライナ人の父マルキャン・ボリシコ、日本人の母キヨとの間に生まれる。納谷は母の姓であり、幸喜の名は皇紀2600年にちなんでつけられた。また、イヴァーンというウクライナ語名があったという。1960年代に活躍し、ライバルといわれた柏戸とともに「柏鵬(はくほう)時代」と呼ばれる大相撲の黄金期を築いた。優勝32回、6連覇2回、45連勝などを記録し、昭和の大横綱と称され、戦後最強の横綱と呼ばれる。
同じくハーフ(日本とウクライナ)である野球の太田幸司同様、大変な美男子だった。当時の子供の好きなものを並べた「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉からも、当時の大鵬の人気と知名度がわかる。
【引退後】
慈善活動に熱心で、「大鵬慈善ゆかた」などを販売し、その収益を元にして、1967年(昭和42年)から1968年(昭和43年)までは、老人ホームや養護施設にテレビを贈り、1969年(昭和44年)から2009年(平成21年)までは、日本赤十字社に血液運搬車「大鵬号」を贈った。
【取り口、強さ】
取り口は非常に手堅く、若い頃はもろ差しを得意にしていた。胸を合わせず、前かがみになって腰を引く「逆くの字」の体勢で相手の攻めを防ぎ、横へ回りながら自分有利の体勢に持ち込んでいき、投げで崩すか寄り切ると言うのが勝ちパターン。弱点である腰の脆さをこの体勢と身体の柔らかさと懐の深さで補っていた。その体の柔らかさは真綿やスポンジに例えられるほどのものであり、どんな当たりをも受け止め、崩れない相撲を可能にしていた。
幕内最高優勝32回は2009年(平成21年)現在、最多優勝記録である。様々な金字塔を打ち立てたが、特に入幕(1960年)から引退(1971年)までの12年間、毎年必ず最低1回は優勝した記録は「一番破られにくい記録」と言われる。

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文藝春秋 2010年12月号
「安保と青春・されどわれらが1960」
大鵬幸喜 −−柏戸に敗れて始まった「柏鵬時代」 (一部抜粋しています)
私にとっての昭和35年といえば、後年、横綱柏戸とふたりで「柏鵬時代」を築く、その幕開けの年だったといえます。栃錦若乃花の両横綱が鎬(しのぎ)を削っているなか、19歳の私が1月の初場所に新入幕しました。初日から11連勝し、12日目に敗れた相手が、当時小結だった柏戸でした。ちなみに戦後の相撲界で、新入幕と三役が当たるのは初めてのことだったそうです。
33年の5月、幕下に上がった頃のことですが、両国の本所警察署の横に、お茶漬け屋がありました。のれんをくぐると、そこの親父さんが「お前たちはどこの部屋だ?」。「二所ノ関部屋です」と答えると、「伊勢ノ海部屋の富樫(のちの柏戸)っていうのは将来有望だぞ」と言うのです。初めてその名前を耳にしたのを憶えています。翌年、私が十両の時代に、出稽古に来た柏戸と何番か稽古をしたのですが、出足が早く、何度やってものどわでいっぺんに持っていかれました。
そして、35年初場所での、あの幕内初対戦です。「出足を止めればどうにかなるだろう」と考えて臨みましたが、出足を止めるのが精一杯。おしくらするだけで技を出せません。私の足が流れたところを投げられ、土がつきました。相手はすでに三役力士でおこがましいことでしたが、この日から柏戸に勝つことを目標に、あえてライバルとして見なすことにしました。
「柏鵬のライバル物語」は、この日から始まったのです。のちのち「柏戸は一気に攻める相撲。大鵬の相撲は面白くない」といわれましたが、新入幕2場所目の大阪場所から毎日、師匠が私に「そこに座れ、お前は勝たなければいけないんだ」と、1時間もこんこんと言い続けるのです。師匠のいうことを聞いていたら、冒険的な相撲は取れない。負けない相撲、守りの相撲にもなってしまうというものですよ(笑)。
この年の7月、名古屋場所では新小結として11勝、翌9月場所では関脇の地位で12勝、11月の九州場所では13勝2敗で初優勝を飾りました。新入幕した年に初優勝するのはほとんど例のないことだと聞きますが、この時は、ただ無我夢中で、喜びや嬉しさよりも「これからが大変だ」と思うだけ、大関横綱への茨の道の始まりで、初優勝もひとつの足がかりに過ぎないわけですから。
それに、けっして私ひとりで強くなったわけではありません。当時、師匠はじめ、胸を出して稽古をつけてくれた先輩力士など、周囲の方々が一丸となって私を育ててくれていたのです。
大鵬は1場所寝て起きると強くなっている」と言われていましたが、師匠にしてみれば、「それだけ稽古をさせているんだから当然だ」という思いだったようです。私自身も、けっして有頂天になることはありませんでした。毎日毎日、本当にしんどい思いでひたすら稽古をしていましたし、強くなる人間は立ち止まらずに、一気に勢いで駆け上がっていかなければならない。
翌年9月場所後には柏戸とふたり同時に横綱昇進を決めました。私にとってまさに昭和35年こそ、長い相撲人生の中でも忘れられない1年だったのは間違いありません。
思えば、60年安保闘争で、何かと周囲が騒がしいなか、私はただひたすら一生懸命に相撲を取るだけ。
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当時、私と同じ、19、20歳の学生たちも闘争していましたが、私は大学の勉強以上のことを相撲界で学んだと言えます。後年、紫綬褒章や文化功労賞を戴くにいたりましたが、日本国中のいろいろな方の思いを教えてくれ、ここまで私を導いてくれたのが相撲界−−土俵だったのです。

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