じじぃの「人の死にざま_445_河井・継」

河井継之助 - あのひと検索 SPYSEE
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河井継之助記念館
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河井継之助 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
河井継之助は幕末期の越後長岡藩牧野家の家臣である。「継之助」は幼名・通称で、読みは「つぐのすけ」とも「つぎのすけ」とも読まれる。
【人物像】
さほど背は高くなかったが鳶色の鋭い目を持ち、声がよかったという。徹底的な実利主義で、武士の必須である剣術に関してもいざ事あるときにすぐに役に立てばよいので型や流儀などどうでもよいという考え方であった。しかし読書に関しては別で、好きな本があるとその一文一文を彫るように書き写していたという。物事の本質をすばやく見抜く才にすぐれ、士農工商制の崩壊、薩長政権の樹立を早くから予見していた。藩命にたびたび背き、様々叱咤されたが、本人は当然の風にしていた。河井家は本来ならば家老になどなれない家柄であったがすでに若いころから藩の家老らの凡庸さを見て、結果的に自分が家老になるしかないと公言してはばからなかったという。
遊郭の禁止令を施行した際はそれまで遊郭の常連であった継之助のことを揶揄し「かわいかわい(河井)と今朝まで思い 今は愛想もつきのすけ(継之助)」と詠われている。また、『塵壷』という名前で知られる旅日記を残した。
【書籍・ドラマ】
・『峠』(司馬遼太郎 著、新潮社、1968年)
・『花神
 昭和52年(1977年)1月2日〜12月25日放送のNHK大河ドラマ司馬遼太郎の『花神』(主人公:大村益次郎)、『世に棲む日日』(主人公:吉田松陰高杉晋作)、『十一番目の志士』(主人公:高杉晋作と架空の人物・天堂晋助)、『峠』(主人公:河井継之助)の4作を原作とするが、ドラマの主役は大村。継之助は準主役級で、後半の多くの話に登場する。演じる高橋英樹は、司馬原作の大河では昭和48年(1973年)の『国盗り物語』に続いての主要配役で、その人気と相まって「河井継之助」の名が全国のお茶の間に浸透することにつながった。

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文藝春秋 10月号 (2009年)
司馬遼太郎が愛した日本人 大座談会 (一部抜粋しています)
【対談者】昭和史家・作家 半藤一利茨城大学准教授 磯田道史東京大学教授 山内昌之、作家 水木楊
非運の侍
半藤 明治維新は、江戸幕府や佐幕の諸藩から見れば、単なる武力クーデターでもありました。しかも未熟な薩長軍の幹部たちは、あちこちで乱暴狼藉を働き、ずいぶんと有為の人材を殺してしまったのです。
水木 司馬作品でいえば、その代表格が河井継之助ですね、長岡藩家老として、幕末の動乱の最中、小国がいかに独立を保てるかという道を模索した人物です。結局は破れるのですが、最新鋭の西洋兵器で武装し、薩長軍を大いに苦しめる。
磯田 やはり司馬さんは、河井継之助の死の姿にほれたのだとおもいます。『峠』のラストに描かれる、致命的な戦傷を負うと、下僕に棺をつくらせて、庭に火を焚かせ、病床から終夜それを見続けたという名場面ですね。自分の死をこれほどまでに客体として処理し得た人物も稀であろう、と司馬さんは書いています。 これは司馬さんが考える「武士道」の究極の姿なんですね。生死を美しさとして捉える。「幕末期に完成した武士という人間像は、日本人がうみだした、多少奇形であるにしてもその結晶のみごとさにおいて人間の芸術品とまでいえるように思える」と讃えています。
半藤 いや、そこなんですよ。私は長岡中学(現・長岡高校)の卒業生でして、中学のときから同級生と「河井継之助は本当に立派な人物だったのか」という議論をさんざんやりました。司馬さんは、河井は侍の美学で爆発した、とするのですが、私はまさにそこが良くないと思うのです。一国の指導者たるもの、男の美学で国を滅ぼすようなことは断じてしてはならない、と。これは司馬さんご本人にも何度か言ったんですが、司馬さんは、河井は結果として負けたのであって、滅びの美のために戦ったのではない、と言って、断固として認めませんでした。
水木 今の河井評は、同じ長岡出身の山本五十六にも通じるのではないですか。「1年や2年は存分に暴れて見せます」といって、真珠湾攻撃を華やかに成功させ、日米戦の口火を切ってしまった。司馬さんは五十六をどう見ていたんでしょうか。
半藤 どう思っていたんでしょうね。一言も聞いたことはなかったなあ。
山内 興味深いことに、五十六は、河井を支持したために処刑され、一時はお家断絶になった上席家老・山本帯刀(たてわき)の家名を再興するために、山本家に養子入りをするんですね。同郷というだけにとどまらない深い縁を2人の間に感じます。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
河井継之助(かわいつぐのすけ) (1827-1868) 41歳で死亡。 (一部抜粋しています)
明治元年、越後方面より会津に進攻しようとする官軍に、長岡藩の家老として、河井は、5月20日会津説得の陳情をしたが、傲慢な官軍の参謀岩村精一郎にはねつけられ、やむなく抵抗に起ちあがった。
いちど失った長岡状を2ヵ月後の7月25日また奪回するという離れわざを演じて官軍の心胆を寒からしめたが、その日の戦闘で、飛来した弾丸に左膝を撃たれて倒れた。
戸板にのって、官軍の逃亡した城に入りながら、従者に、「人が聞いても傷は軽いといっておけよ」といい、また「生命には別状なかろうが、もう足は役に立つまいてや」と、いった。
7月29日の官軍の反抗に、もはや彼は陣頭にたって指揮することは出来なかった。城はふたたび奪われ、彼は戸板にのせられたまま会津にはいる。80里峠を越えたが、そのとき、「80里、腰ぬけ武士の越す峠」と自嘲し、また、「死ぬことは覚悟していたが、こんなに痛いとは思わなかった」と、苦笑した。暑熱の空の下の山越えに、足の化膿し、悪化していたのである。
8月5日、会津領只見まで来たとき、幕医松本良順の治療を受けたが、すでに手遅れであった。8月13日、南会津の塩沢まで到達し、つきそいの松蔵に「永々(ながなが)厄介してくりやって、ありがたかったでや」と、礼をいい、8月16日午後8ごろ瞑目した。

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