じじぃの「人の生きざま_47_小野・喬」

中居正広VS芸能人50人! 世代別クイズバトル ジェネレーションチャンプ 170116 (3) 動画 dailymotion
http://www.dailymotion.com/video/x58ow8g_%E4%B8%AD%E5%B1%85%E6%AD%A3%E5%BA%83vs%E8%8A%B8%E8%83%BD%E4%BA%BA50%E4%BA%BA-170116-3_fun
中居正広VS芸能人50人!世代別クイズバトル ジェネレーションチャンプ 2017年1月16日 テレビ朝日
【MC】中居正広
●国民1万人アンケートクイズ オリンピックメダリスト
子どもの頃に熱狂したオリンピック感動のメダリストといえば?というアンケートクイズが出された。
正解は、20代が、北島康介高橋尚子谷亮子荒川静香原田雅彦。30代が岩崎恭子谷亮子高橋尚子北島康介原田雅彦。40代がカール・ルイス山下泰裕森末慎二岩崎恭子鈴木大地。50代がナディア・コマネチ笠谷幸生山下泰裕森末慎二ミュンヘンの日本男子バレー。60代が東洋の魔女円谷幸吉アベベ小野喬古橋廣之進だった。
http://www.tv-asahi.co.jp/mininaru/backnumber/0192/
小野喬 ウィキペディアWikipedia) より
小野喬(おのたかし、1931年(昭和6年)7月26日-)は、体操競技の元オリンピック選手で、元鹿屋体育大学教授。秋田県能代市生まれ。現役時代は「鬼に金棒、小野に鉄棒」と呼ばれたことで知られる。全日本体操競技選手権の個人総合で7回の優勝を誇り、オリンピックでも4大会で金メダル5つ、銀メダル4つ、銅メダル4つを獲得した。
【経歴・人物】
旧制能代中学校卒業⇒東京教育大学慶應義塾大学卒。
メルボルンオリンピックの鉄棒でひねり飛び越しを成功させ体操競技で日本人最初の金メダリストとなった。ローマオリンピックでは初の団体総合優勝に貢献、鉄棒で連覇のほかに跳馬でも金メダルを獲得し、日本の男子体操黄金時代の礎を築いた。一方、個人総合ではメルボルン大会は平行棒、ゆかの着地で失敗しヴィクトル・チュカリンに、ローマ大会はボリス・シャハリンと、いずれもソビエト連邦の選手に0.05点の僅差で敗れ、金メダルに手が届かなかった(日本選手の個人総合優勝は、東京大会で秋田県出身の後輩・遠藤幸雄が実現することになる)。
1964年の東京オリンピックでは日本選手団主将に指名され、開会式では選手宣誓を務めた。すでに選手としてはピークを過ぎており、本番では大会前に痛めた肩に麻酔の注射を打って演技に臨んだが個人でのメダル獲得はならず、団体総合の一員としてのみ金メダルを授与された(ただし、チームで一個のメダルしか与えられなかったため、メダルの現物は小野の手には渡らなかった)。
小野は日本のオリンピック選手としては初めて夏季大会に4大会連続で代表に選ばれて出場した選手である。出場したすべての大会でメダルを獲得しており、夏季大会4大会連続メダルは谷亮子が更新するまでは日本人最多であった(男子では2010年現在も最多)。また、獲得したメダルの総数13個は、加藤沢男(日本人最多金メダリスト)らを抑えて2010年現在も日本人最多となっている。一時期、学校法人二階堂学園の常務理事を務めた。1998年に国際体操殿堂入り。現在は日本スポーツクラブ協会名誉顧問、日本マレットゴルフ協会会長。
妻の清子(旧姓:大泉)とは1952年の国民体育大会で知り合った。清子にオリンピック出場できる素質を感じた彼は指導をするうちに恋が芽生え、2人は1958年に結婚しており、ローマオリンピック東京オリンピックで夫婦共に日本代表として出場、東京オリンピックでは夫婦揃ってメダリストとなった。2人の間には息子2人、娘3人が生まれた。

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文藝春秋 2010年12月号
「安保と青春・されどわれらが1960」
小野喬 五輪金メダリスト−−「体操ニッポン」世界一への出発 (一部抜粋しています)
ヘルシンキメルボルンに続き3度目のオリンピック出場となったローマ大会に、私は2つの大きな目標を掲げていました。メルボルンで銀メダルに終わった体操団体相好、わずか0.05の差で逃した個人総合、2つの種目で金メダルです。
両種目で立ちはだかったのはソ連です。「打倒ソ連」を合言葉に4年間練習に取り込んできた私たちにとって9月7日こそが勝負の日でした。当時、体操は規定と自由演技に分かれていました。前々日の規定で日本は団体首位に立って自由演技に臨むことになりました。さらに両演技の個人合計得点で個人総合のメダルも決まります。
当日、緊張はあったと思いますが、どこかゆとりをもって望んだように覚えています。自由演技については自信を持っていたからです。
会場の雰囲気も後押ししてくれたかもしれません。古代ローマのカラカラ浴場跡に建てられた施設でしたが、演技中も「ガンバレ」など地元の人たちの日本語の応援が聞こえてくる。私たち日本体操チームは、直前まで市内の消防学校で合宿していたからか、親しみを持ってもらえていたようです。
自由演技は午前に3種目、夜に3種目が実地されるスケジュールになっていました。午前中が終わっても日本は首位を維持し、悲願の金メダルをかけて、夜の部に臨むことになりました。
ただ、私は夜の部の最後の2種目、あん馬とつり輪が苦手でした。また、メーカーが違ったからでしょうか、器具に触れるとごこか違和感がありました。そこで考えました。「自信を持ちきれない以上、安全に行こう」。あん馬とつり輪ともにC難度の技を回避し、B難度で挑むと決めたのです。
やさしい技にしたのですから、失敗などありえないはずでした。しかし、あん馬の着地で止まりきれないというミスをしてしまったのです。
残すは最終種目のつり輪です。ソ連との勝負がかかるはずの勝負所で、実は私は仲間のおかげで、気楽な立場で臨める状況となりました。演技順は日本チーム最後の6番目でしたが、前の5人が終わったところで団体総合の金メダルが確実な情勢となったのです。あとは自分の演技に集中して、もう1つの目標を達成する。チームのみんなも個人総合金メダルの期待をこめて応援してくれているのを感じました。
ところがつり輪でも、やはり着地でミスが出た。ひねりをくわえない1回宙返りで降りたのですが、2、3歩、前に出てしまったのです。結果はトップのソ連の選手と0.05差の2位。またしてもメルボルンと全く同じわずかな点差で敗れてしまいました。
自分では気づかないうちに緊張していたのか・・・・プレッシャーがあったのかもしれません。団体で悲願の金メダルを獲得できた喜びはありましたが、悔しさがふつふつと湧いてきました。「予定どおり、C難度のまま挑んでいたらどうだったろう」と考えもしました。でも3日後に種目別の演技が控えていましたから、気持ちを切りかえようとしました。結果、鉄棒と跳馬では金メダルをとることができました。
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いま、あらためてふり返れば、自分自身の成績としては悔しさもありましたが、団体でついに金メダルを獲得できた喜びが勝った、そんな1日だったように思います。日本の体操男子は、このローマ五厘からオリンピックと世界選手権で団体総合10連覇を果たしました。19年にわたり世界一であり続けたのです。

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