じじぃの「人の死にざま_443_吉田・兼」

吉田兼好 - あのひと検索 SPYSEE
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渡辺知明の表現よみ=徒然草52段 動画 YouTube
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吉田兼好 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
吉田兼好は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家。治部少輔卜部兼顕の子。本名は卜部兼好。卜部氏の嫡流は後の時代に吉田家、平野家などに分かれ、兼好は吉田家の系統であったことから江戸時代以降は吉田兼好と通称されるようになった。また出家したことから兼好法師とも呼ばれ、中学校国語の検定済み教科書ではすべて「兼好法師」と表している。また、兼好と呼ぶこともある。
日本三大随筆の一つとされる『徒然草』の作者であり、また私家集『兼好法師家集』がある。
卜部氏は古代より卜占を司り神祇官を出す神職の家柄であり、父兼顕も吉田神社神職であった。
徒然草
「つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ」
作品の名にもとられる書き出しの「つれづれ」(徒然)は「やるべき事がなくて、手持ち無沙汰なさま」を意味する。「つれづれなり」と「よしなしごと」や、「書き付く」は先行する文学にも用いられている組合せであり、作品および自己を卑下する謙遜の辞である。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
兼好法師(けんこうほうし) (1283?-1353) 70?歳で死亡。 (一部抜粋しています)
兼好の生年没年には諸説がある。
日蓮の死んだ翌年に生まれた兼好は、若いときは宮廷に仕え、30代のはじめに出家し、各地を漂泊し、のちに洛西双ヶ岡の麓に庵(いおり)をむすんで、無常観と人間知にみちた『徒然草(つれづれぐさ)』を書いた。
彼は一代のうちに、北条の滅亡や湊川の戦い南北朝の興亡−−すなわち『太平記』の世界を見たことになる。のみならずその『太平記』によれば、暦応年間−−兼好56、7歳のころ−−足利家の権臣高師直のために、師直が懸想(けそう)した出雲の太守塩谷判官高貞の奥方に艶書の代筆をしたとある。奥方がその艶書を見もせず捨てたことから、塩谷判官は師直に憎まれて殺される羽目になり、これが後年の『仮名手本忠臣蔵』の素材となった。
兼好は、正平5年−−楠木正行高師直四条畷(なわて)で戦って討死した翌々年−−伊賀の国にあって、4月7日、国見山の麓で死んだというが、その様相は不明である。
「死は前よりしも来らず、かねて後(うしろ)に迫(せま)れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遥(はる)かなれども、磯より潮の満(み)つるが如し」
                             −−『徒然草』−−

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