じじぃの「人の死にざま_439_ミケランジェロ」

ミケランジェロ・ブオナローティ - あのひと検索 SPYSEE
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Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni, Miguel Angel, el genio 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=qX45g8389-A&feature=related
サン・ピエトロ大聖堂 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=sdts2BfoZcE
ミケランジェロ・ブオナローティ ウィキペディアWikipedia)より
ミケランジェロ・ブオナローティは、イタリアルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人。名前はミカエル(Michael)と天使(angelo)を併せたもの。
西洋で最も巨大な絵画の一つとも言われるバチカンシスティーナ礼拝堂の天井フレスコ画や『最後の審判』、パオリーナ礼拝堂にある『聖ペテロの磔刑』、『パウロの改宗』を描いたことでよく知られている。もともとは彫刻家であり、『ピエタ』や『ダビデ像』等の傑作のほかにも『バッカス』、『モーセ』、『ラケル』、『レア』などが有名である。バチカンの『サン・ピエトロ大聖堂』の設計者でもある。
レオナルド・ダ・ヴィンチラファエロ・サンティとともにルネサンスの三大巨匠と呼ばれる。ミケランジェロは長命であり、作品も盛期ルネサンスの時代から、マニエリスムの時代への移り変わりを示している。また躍動的な表現は、次のバロックの時代を準備したといわれる。
【生涯】
ミケランジェロフィレンツェ共和国(現在のイタリアのトスカーナ州)カプレーゼに生まれた。
幼少の頃から絵画や彫刻に興味を示し、1488年、13歳でドメニコ・ギルランダイオに弟子入りした。ドメニコは彼の才能に感心し、フィレンツェの支配者だったロレンツォ・デ・メディチに紹介した。ロレンツォはミケランジェロを自宅に引き取り学ばせた。その間にプラトン・アカデミーに集まる人文主義者たちやベルトルド・ディ・ジョバンニなど多くの突出した人々と出会い、芸術に関する着想を広げ、大きな影響を受けた。ミケランジェロはこの時期に『ケンタウロスの戦い』『階段の聖母』の二つの浮き彫りを制作している。
ロレンツォが亡くなった1492年、ロレンツォの子で後継ぎのピエロはミケランジェロへの後援をやめた。ミケランジェロフィレンツェを離れボローニャで3年ほど生活した。その後すぐの1496年にサンジョルジオ枢機卿ミケランジェロ作の大理石の天使を購入し、彼をローマへと招いた。ミケランジェロはローマで古代彫刻の影響を受けながら、5年の間とどまり、『ピエタ』(サン・ピエトロ大聖堂)とバッカスを作った。
この間、フィレンツェではメディチ家の追放、サヴォナローラによる神制政治、サヴォナローラの失脚、新たな共和国体制、と政変が続いていた。ミケランジェロはそうした時期のフィレンツェに戻り、1501年に共和国政府の依頼で彼の代表作のひとつであるダビデ像を4年かけて制作した。ダビデ像は市庁舎(のちヴェッキオ宮殿)前に設置された(現在はアカデミア美術館に移され、市庁舎前にはレプリカが置いてある)。ダビデ像フィレンツェの共和制のシンボルとなった。また、『聖家族と幼児洗礼者ヨハネ』もこのときに制作している。
1506年、ミケランジェロローマ教皇ユリウス2世にローマへ呼び戻され、教皇の墓廟を制作するよう命ぜられる。墓といっても彫刻を多数並べた巨大な構築物である。しかし多数の仕事を命ぜられたミケランジェロは、制作を何度も中断せざるを得なかった。また墓標の規模も度々変更された。墓廟の制作には40年も関わることになり、モーセ像などが制作された。
1508年、今度はユリウス2世から墓廟の制作より先に バチカン宮殿にあるシスティーナ礼拝堂の天井画を描くよう命じられた。自分は彫刻家であり、画家ではないと拒んだが、しぶしぶ教皇の命令に従った。礼拝堂内に足場を組み、横になって苦しい作業を続け、1512年までの4年間をかけて創世記をテーマにした『天地創造』の大フレスコ画が完成した。
1513年にユリウス2世が死ぬと、メディチ家出身のレオ10世(ロレンツォの次男)が教皇に即位し、ミケランジェロフィレンツェのサン・ロレンツォ教会外観の設計などを命じた。ミケランジェロは渋々承諾し、図書館やメディチ家礼拝堂の新聖器室などを建設するが、教会の外観は現在に至るも未完成のままである。1527年、教皇クレメンス7世(レオ10世の従弟)のときにローマ略奪が起こると、メディチ家フィレンツェから再び追放される。共和制に共感したミケランジェロフィレンツェ共和国の築城長官に就任するが、これはメディチ家に対する背信的な行為であった。
1530年にメディチ家フィレンツェに復帰すると、ミケランジェロはフランスへ逃亡するが、クレメンス7世はミケランジェロの行為を不問にしてローマに呼び戻す。クレメンスはシスティーナ礼拝堂の祭壇背後の壁画を依頼するが、ミケランジェロは壁画の仕事には気が進まなかった。しかし、次の教皇パウルス3世が強く催促したため、壁画『最期の審判』を1536年から1541年までかけて完成させた。
1546年には建設工事中であったサン・ピエトロ大聖堂の建築主任となる。当時、構造上の問題や度々の設計変更で工事は停滞していたが、ユリウス2世当時のプラン(建築家ドナト・ブラマンテが構想していた集中式の教会堂)を元に設計し直し、建設を進めていった。1564年、ミケランジェロが亡くなったときは、大ドームの基部付近まで工事が進んでいた。

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『人類の歴史200万年』 READERS DIGEST 1980年発行
万能人 (一部抜粋しています)
ルネサンスの男女は。自信に満ちあふれ、すべての知識を自己のものにしようとしていた。この時代に典型的な人々は、新しい経験と新しい世界とを渇望していた。レオナルド・ダ・ヴィンチは、多くの分野で手を伸ばし、その各々で驚くばかりの独創性を発揮した。彼は、科学者であり、画家、彫刻家、技術者、解剖学者、植物学者、数学者かつまた哲学者であった。
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ミケランジェロも、やはり万能人であった。彼は、詩人、哲学者、サン・ピエトロ教会を建てた建築家であり、『最後の晩餐』を描いた画家であり、メディチ家の墓地の立像を作った彫刻家でもあった。さらに、1529年、メディチ家治下のフィレンツェ防衛の任に当たった9人の市民の1人でもあった。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
ミケランジェロ (1475-1564) 89歳で死亡。 (一部抜粋しています)
穏やかなレオナルド・ダ・ヴィンチとさえ諍(いさか)いを起こしたほど気むずかしく、カンシャクもちで、他人にもきびしかったミケランジェロは、自分に対してはそれ以上にきびしかった。
彼は生涯、少量のパンと葡萄酒だけの食事、数時間の睡眠で、営々として描き、彫刻した。
徹底した完全主義者の彼は、何から何まで、大理石を切り出すことまで自分の手でやらなければ気がすまず、しかも出来上がった作品は、もし彼に自由にさせたらことごとく打ち砕いたろうといわれるまで厳格であった。
そういう性格もあって、かれは40歳を過ぎたころから、すでに自分の老いを告白しているほどである。しかし彼は長命した。
そんな生来の頑健な体質も、さすがに晩年には、胆石や痛風、その他さまざまな病気で苦しむようになった。老いて彼はいった。「人間の誕生日は、よろこびの日ではなく、かなしみの日とすべきだ」
80歳のときに彼は書いている。
「私は樹皮につつまれた髄のように閉(とざ)されて、ただひとりみじめな生活を送っている。私の骨は皮ばかりの袋の中の蜂のようだ。私の歯は楽器の鍵盤さながらに揺れ動く。私の顔は案山子(かかし)のようだ。私の耳は一方には蜘蛛(くも)の巣が張り、一方には夜通しこおろぎが鳴きつづけている。私の呼吸器のカタルはあえぎ通して、私を眠らせてくれない。私に光栄を与えてくれながら、芸術はなんというなれの果てまで私を連れ込んできたのだろう」
1561年、86歳のとき、彼は裸足(はだし)のまま3時間もつづけて素描していたとき、ふいに痙攣(けいれん)を起こして倒れた。しかし、数日後には回復し、馬に乗って仕事に出かけた。
1564年、89歳のときも彼は、ローマの自宅で「ピエタ」(嘆きの聖母像)制作のために立ちつづけていたが、2月14日に高熱を出した。しかし彼は、雨の中を馬でカンパニアの野に散歩に出かけた。
しかし彼も自分の身体の異常に気がついていて、友人を通じてフィレンツェのリオナルドにいそいで来るように口述の手紙を送った。リオナルドは彼に残ったただ一人の甥で、しかも、疑いぶかいミケランジェロは、自分の財産に目をつけていると思って、平生近づくことを許さなかった甥であった。
友人は甥への手紙につけ加えた。
「きょうの午後も3時から4時までのあいだに、習慣通り馬で外出しようとされました。しかし、寒い上に足も思うようにきかないので、引き返して、壁暖炉のそばの、ベッドよりお気に入りの安楽椅子に腰を下ろされました。・・・・」
超人ミケランジェロが、ベッドにつくことをやっと承知したのは、死の前日であった。彼は数少ない友人や従者たちにかこまれて、はっきりと遺言を口述して、2月18日、酷烈な生涯を閉じた。
 あらゆる悲と神への訴に痩せ細って
 彼は青い歩のをのやうなロンダニィニのピエタを彫った
 2月の雨に濡れながらひねもす落葉を踏んで立ってゐた
 90歳の肉体は病み何処(どこ)にも楽な場所がなかった。
 一日床にねて彼は死んだ
                        −−高村光太郎『つゆの夜ふけに』−−
−−ただし、高村光太郎は自分を日本のミケランジェロだと思っていた。

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