じじぃの「人の死にざま_436_深作」

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深作欣二インタビュー Interview with Kinji Fukasaku(1/3) 動画 YouTube
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仁義なき 動画 YouTube
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深作欣二 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
深作欣二(ふかさくきんじ、1930年(昭和5年)7月3日-2003年(平成15年)1月12日)は、日本の映画監督。茨城県水戸市出身。妻は女優の中原早苗。映画監督の深作健太は実子。仲間からの愛称は「サクさん」。
1973年(昭和48年)から公開された『仁義なき戦い』(脚本笠原和夫、主演菅原文太)シリーズは、映画史に残る大ブームとなり、「実録映画」の第一人者の地位を不動のものとする。その後もテレビドラマ『傷だらけの天使』(2本を監督)、映画『柳生一族の陰謀』『魔界転生』『蒲田行進曲』『バトル・ロワイアル』など、発表する作品の多くが話題作となる。
2003年(平成15年)1月12日、前立腺ガンの脊椎転移のため死去、72歳没。後に勲四等旭日小綬章を贈られた。
深作は抗ガン剤の投与を拒んだ。副作用による男性機能の低下を懸念したためである。
『映画でクラシック』 西村雄一郎/著 新潮社 2007年発行
クラシックを愛した巨匠監督たち(日本編) (一部抜粋しています)
深作欣二監督が2003年1月12日に前立腺ガンで死亡された。監督とは、1992年に、「さよなら福岡東映」というイベントでご一緒した時が最初だった。その後、中州で深夜まで飲んだ時、黒澤監督について延々と論争した。
深作さんは、黒澤の映画を見て、映画を志したそうだ。13歳の時、戦争中に故郷の水戸で黒澤さんのデビュー作『姿三四郎』(1943年)に接し、そのアクションの素晴らしさに心を奪われた。
戦後は闇市を舞台にした『酔いどれ天使』(48年)に、自分のなかの病力的衝動と一致するものを感じた。「なにしろ画面が踊ってましたね」と述懐する。深作監督は、後になって『仁義なき戦い』シリーズ(73〜74年)という闇市からのし上がるやくざたちの戦後史を撮ることになるのだが、それはこの『酔いどれ天使』の影響が大きかった。
その後、監督になって、黒澤さんがアメリカで撮ろうとして挫折した、『トラ・トラ・トラ!』(70年)のピンチヒッターの監督として立ったのも(舛田利雄監督と共同)、何かの縁だろう。
夜もふけて、宿舎のホテルに帰った時、私は自分の書いた本2冊を監督に進呈した。朝になって、昼食をとりにレストランに行くと、深作さんがすでにすわっていて、「君の本を読んだよ」というのだ。徹夜して2冊とも読み終えたというから驚いた。そこでまたしても本に関しての論争が始まった。それから監督はゴルフに出かけた。その時、この人は何というエネルギーを秘めた人なのだろうと感心した。あれほどの体力があるからこそ、あんなすさまじいアクション映画が撮れるのだろうとも思った。
同時に、ワーグナーを連想した。それは自分の楽劇上演のためには、芸術の鬼となって、音楽だけでなく、台本も演出も劇場建設も、一手に引き受けたオーグル(人食い)のようなエネルギーと、数々の浮名を流した女性遍歴という点に共通項を見出したこともある。しかしそれ以上に、共通点があったのは、描く女性に関してなのだ。深作映画の男性的、暴力的特徴は、誰もが言及するところだが、彼の女性の描き方には、大きな時腸があった。即ち、登場する女性たちは、皆、罪深い男性たちを贖罪してくれる天使のような役回りとして配されているのだ。
例えば、オルフの≪カルミナ・ブラーナ≫の冒頭部とマーラー交響曲第1番≪巨人≫第3楽章というクラシック音楽を、時代劇にぶつけて話題を呼んだ『忠臣蔵外伝・四谷怪談』(94年)である。この作品は歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』と『東海道四谷怪談』を合体させた意欲作だ。その難しいシナリオを書いた脚本家、古田求さんも、その特徴にふれて「主人公・伊右衛門」(佐藤浩市)の現世の業や罪を、お岩(高岡早紀)が受け入れて、顔にアザを作るという展開になっている」と言う。
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毒とエロスを含んだワーグナーも深作映画も、四角四面のモラルを片付けようとすれば、よく分からないだろう。ワイド・ショーの追悼番組でも、ずいぶん見当はずれな事を語るコメンテーターがいた。
いえることは、深作映画には、今もよそよそしい核家族社会には見られない。群衆がせめぎあう汗臭さ、やっさもっさの人間臭さ、ぎゅうぎゅうともみ合う程のスキンシップがあった。その体温を感じられるからこそ、実際に深作さんと共に飲んだり、芸術論を戦わせたり、物を作ったりした人たちは、誰もが深作さんを好きになった。男も女も・・・・。深作さんは魅力的な人だった。
古田さんか「この人のためには、何とかしてやらなくては、と思ってしまう」という。それは皆、深作さんの少年のような偽りのない純真さ、希求の高さに、ほだされたからではないだろうか。

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深作欣二 Google 検索
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