じじぃの「人の死にざま_434_東條・英機」

東條英機 - あのひと検索 SPYSEE
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東京裁判 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=uyZLaL_9DSg&feature=related
東条英機はどんな人だったんですか? Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1324384583
東條英機 ウィキペディアWikipedia) より
東條英機は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。
【概要】
東條英機明治17年1884年)7月30日、東京市麹町区(現在の千代田区)に東條英教陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)と千歳の間の三男として生まれる。
昭和15年(1940年)7月22日から第2次近衛内閣、第3次近衛内閣の陸軍大臣を務めた(対満事務局総裁も兼任)。 近衛日記によると支那派遣軍総司令部が「アメリカと妥協して事変の解決に真剣に取り組んで貰いたい」と見解を述べたが、東條の返答は「第一線の指揮官は、前方を向いていればよい。後方を向くべからず」だったという。 昭和16年(1941年)10月14日の閣議において日米衝突を回避しようと「日米問題は難しいが、駐兵問題に色つやをつければ、成立の見込みがあると思う」と発言したのに対して東條は激怒し「撤兵問題は心臓だ。撤兵を何と考えるか」「譲歩に譲歩、譲歩を加えその上この基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲りそれが外交か、降伏です」と強硬な主戦論を唱えたという。これにより外交解決を見出せなくなったので翌々日に辞表を提出したとしている。辞表の中で近衛は「東條大将が対米開戦の時期が来たと判断しており、その翻意を促すために四度に渡り懇談したが遂に説得出来ず輔弼の重責を全う出来ない」とした。近衛は「戦争には自信がない。自信がある人がおやりなさい」と言っていたという。
日本政府が最後の望みをかけておこなっていた日米交渉の間、陸軍の強硬派を抑えることができる唯一の人物であると目されたため、昭和16年(1941年)10月18日に、第40代内閣総理大臣兼内務大臣・陸軍大臣に就任し、且つ、内規を変えてまで陸軍大将に昇進する。第2次近衛内閣、第3次近衛内閣と日米開戦に近づく政策を実行した政権指導者であった近衛文麿を引継いだが、日米開戦を回避させるため、いったん帝国国策遂行要領を白紙に戻した。 この年『戦陣訓』を作成し布達している。
連合国は東京裁判で、ハワイへの攻撃は東條の指示だったとし、その罪でA級戦犯として処刑した(罪状:ハワイの軍港、真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪)。
東條は昭和23年(1948年)11月12日、極東国際軍事裁判東京裁判)で、「真珠湾を不法攻撃し、アメリカ軍人と一般人を殺害した罪」で絞首刑の判決を受け、12月23日、巣鴨拘置所(スガモプリズン)内において死刑執行、満64歳没。

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『マスコミより確かな 習近平の言い分』 孔健/著 三五館 2015年発行
中国人がいまでも憎む8人の日本人 より
いまでも中国人が許すことのできない歴史上の日本人がいる。すべて戦争に絡んだ人物だ。雑誌の特集ネタにもなっている。
伊藤博文
大山巌
昭和天皇
東條英機
 軍国主義者。A級戦犯だ。敗戦後、東京裁判で有罪となり絞首刑になった。
・岡村寧次
・谷寿夫
・石井四郎
土肥原賢二

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
東條英機 (1884-1948) 64歳で死亡。 (一部抜粋しています)
敗戦直後の昭和20年9月11日、自決をはかって失敗した東條は、東京裁判にかけられるや検事キーナンの訊問に一歩もゆずらず反論した。その弁明で、自分が天皇の御意見にそむくことなど全体にあり得ないことを力説すれば天皇に責任が及ぶことになるが、それを鋼線の刃渡りのようなきわどい芸当で彼は切りぬけた。死刑は最初から決定していた。
彼は、昭和20年8月15日までの「日本の論理」を述べたのだが、連合国側の裁判官はもちろん、8月16日以降突然変異を起こしたすべての日本人がその論理を認めなかった。
23年11月12日、ウェップ裁判長から「デス・バイ・ハイギング」(絞首刑)と宣告を受けたとき、彼はニコリと口角を崩して微笑し、イヤホーンをはずした。そして傍聴席の家族や旧部下にちらっと眼を向けると、法廷のドアから姿を消した。
彼はそのあと、同じく巣鴨拘置所に収容されていた部下佐藤賢了中将に、「自分は国民から八つ裂きにされても然るべきところ」と語り、また、「自分は永遠に歴史の上で罵りの鞭を受けるだろう」と語った。
しかし太平洋戦争の最大の責任者は彼ではない。彼以下でない責任者はほかに幾人もいる。
12月23日午前零時、巣鴨拘置所で刑が施行された。
東條はかねてから獄中で「一杯やりたいですな」と冗談をいっていたので、処刑の直前コップ一杯ずつの葡萄酒(ぶどうしゅ)を飲ませられて大変なごきげんであった。そして松井石根大将に音頭をとらせて、「大日本帝国万歳」を三唱した。
その声の余韻が消えないうちに、刑場へのドアがひらかれた。
東京裁判で、ただ一人、東條は勝ったのではあるまいか。
ところで、当時の巣鴨拘置所所長アーサー・ベル大佐が戦後妻フロレンスに語ったところによれば、東條は処刑前日、トイレットペーパーをコヨリにしたひもで、独房の中で隘死しようとしたのを発見され、このまま死なせてくれといって男泣きしたという。「彼は処刑される前に、武士らしく自決したかったようだ」と大佐は語ったという。
なお東條が逮捕されたときの米軍の記録カードによれば、身長5フィート4インチ、体重130ポンドとある。
すなわち約163センチ、59キロで意外に小柄な人物であった。

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