じじぃの「人の死にざま_407_H・ネルソン」

ホレーショ・ネルソン - あのひと検索 SPYSEE
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Nelson.The man,the lover,the legend 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=tA5NW4SFX5A&feature=related
Trafalgar 1805 - Approach and Battle 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=9PLhLXdbeUI&feature=related
ホレーショ・ネルソン フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ホレーショ・ネルソンは、アメリカ独立戦争ナポレオン戦争などで活躍したイギリス海軍提督。トラファルガー海戦でフランス・スペイン連合艦隊を破り、ナポレオンによる制海権獲得・英本土侵攻を阻止したが、それと引き換えに自身は戦死した。
【生涯】
ノーフォーク、バーナム・ソープ村の教区牧師の第六子として生まれた。母方の叔父のモリス・サクリングが海軍の軍人であった。
1805年、フランス・スペイン連合艦隊をトラファルガー岬沖に捕捉、二列の縦陣で敵艦隊に接近戦を挑む、いわゆる「ネルソン・タッチ」で勝利をおさめる。
戦闘開始を告げ、兵士たちを鼓舞した“England expects that every man will do his duty”(英国は各員がその義務を全うすることを期待する)の信号旗は、現在も名文句として残る。ネルソン自身は“Nelson convinced that every man will do his duty”(ネルソンは各員がその義務を全うすることを確信する)としたかった(“England confides that every man will do his duty”という説もある)のだが、続けて「接近戦を行え」の指示を送らなくてはならなかったので、信号士官の進言を受け、より少ない旗ですばやく信号をおくれる、「英国は〜期待する」の方を採用したものだった。後に名文句となるも、命令的で尊大な文章であるため、この時は「いまさら言われなくても義務は果たしている」と不満の声があがったり、水兵の士気に悪影響を与えると考えて、内容を伝達しなかった艦長もいた。次席指揮官のカスバート・コリングウッドは、戦闘開始寸前に、戦闘指揮とは関係無い信号の伝達に不満を感じたと書き残している。
一方で連合艦隊ヴィルヌーヴ提督も接近戦を狙うネルソンの意図は察しており、各艦に狙撃手を配置していた。特にリュカ艦長などの一部艦長は砲撃よりも小銃射撃・切込みによる水兵殺傷を主眼としており、ネルソン自身はその戦勝と引き換えに狙撃され、戦死する。旗艦「ヴィクトリー」上で指揮を執るネルソンは4つの勲章(正確にはそれを模した布製のレプリカ)を胸にしており、狙撃をおそれた副官らからコートを羽織るように進言されても、「立派な行いでこれをもらったのだ、死ぬ時もこれをつけていたい」と退けた。
ただ、実際当時のマスケット銃でネルソン個人(或いは高級将校個人)を狙った狙撃というのは困難で、恐らく切込み突撃に備えて射撃していた海兵隊の視界に偶然入って狙撃されたというのが正しい解釈である。実際、彼以外の多くの将官も目立つ格好をしていた。

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『人類の歴史200万年』 READERS DIGEST 1980年発行
ナポレオンの帝国 (一部抜粋しています)
ナポレオンの野心は全世界に及び、1798年にはインドへの進撃を謀っている。しかしナポレオンの艦隊はナイル川の戦いでネルソンに破られ、計画は中断された。また、サント・ドミンゴにいたナポレオン軍は戦争と黄熱病で打撃を受け、1804年にはカリブ帝国の夢も放棄しなければならなかった。ナポレオンは2000隻の艦船と9万人の軍を集めてイギリス征服を計画した。彼にいわせると、「イギリス海峡は単なる溝にすぎない」、「海峡を6時間制圧すれば、わたることができよう」。しかし、海軍がトラファルガー沖で敗北を喫したのち、1805年に、ナポレオンはイギリス侵略も放棄しなければならなかった。ナポレオンの陸上帝国は、依然として膨大な強固なものであったが、イギリスは海上を支配し、シチリア島マルタ島、サンディニア島を確保し、イギリス商品はナポレオンの大陸封鎖をものともしないでヨーロッパに到着しつづけた。イギリス軍は海から補給を受けて、25万人のフランス軍をスペインに縛り付けた。これがナポレオンを衰弱させる一因となった。しかし彼に破滅をもたらしたのは、1812年のロシア侵略であった。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
ネルソン (1758-1805) 47歳で死亡。 (一部抜粋しています)
1805年10月21日正午過ぎ、ネルソンのひきいるイギリス艦隊は、トラファルガー沖において、ナポレオンのフランス艦隊と会戦した。このときに当たってネルソンが発した「英国は各員がその義務を遂行せんことを期待す」という信号は有名である。
海戦がはじまって1時15分過ぎ、旗艦の鋼板で指揮していたネルソンは、ふいに左手を甲板につき、駆け寄った部下に、「やられた、背骨だ」といった。
夕刻に至って、英国艦隊の完勝であることが判明するまで、ネルソンが苦しみながら最も多く口にしたのは、愛人ハミルトン夫人と彼女に生ませた娘のことであった。
ハミルトン夫人は、元ナポリ駐在のハミルトン公使の妻で、育ちも賤(いや)しく、無教養で多情な女であったが、同時に絶世の美女で、うぶなネルソンは彼女を恋し、ついに姦通して子供まで生ませていたのである。
ネルソンは、絶命するに当たって、従軍の牧師に、
「私は、ハミルトン夫人と娘のホレーシアを、遺産として祖国に遺します。どうか忘れないで下さい」
と、また繰返して息絶えた。
英国はネルソンの期待に応えなかった。
浪費家のハミルトン夫人がやがて窮迫して政府に願い出た年金下付は拒否され、彼女は牢にまではいる運命におちいり、10年後、彼女がカレーの陋巷(ろうこう)で死んだとき、だれもが、それが英雄ネルソンの恋人だった女性だとは知る者もなかった。

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