じじぃの「人の生きざま_136_N・マンデラ」

南アフリカ元大統領のマンデラ氏死去 ノーベル平和賞受賞 2013.12.6 MSN産経ニュース
南アフリカの反アパルトヘイト(人種隔離政策)闘争を指導したノーベル平和賞受賞者、ネルソン・マンデラ元大統領が5日午後8時50分(日本時間6日午前3時50分)ごろ、ヨハネスブルクの自宅で死去した。95歳だった。
同国のズマ大統領が5日深夜に発表した。肺の感染症などで入退院を繰り返していた。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/131206/mds13120607100000-n1.htm
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南アフリカ ネルソン・マンデラ元大統領の追悼式典終了(13/12/11) 動画 YouTube
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ネルソン・マンデラのリーダーシップ!(本編映像-1).avi 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=SO6TyTRb5U4
apartheid 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=_9a_nauc3W8
ネルソン・マンデラ ウィキペディアWikipedia)より
ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ(コサ語: Nelson Rolihlahla Mandela、1918年7月18日 - 2013年12月5日)は、南アフリカ共和国の政治家、弁護士である。
大統領(第8代)、下院議員(1期)、アフリカ民族会議議長(第11代)を歴任。
賞歴としてネルー賞、ユネスコ平和賞、アフリカ賞、サハロフ賞、ノーベル平和賞、国際検察官協会名誉章受章など。称号には名誉法学博士(早稲田大学)など。南アフリカ共和国での愛称はマディバ。
【概要】
アパルトヘイト運動により反逆罪として逮捕され27年間に渡り刑務所に収容された。釈放後、アフリカ民族会議(ANC)の副議長に就任。その後、議長。デクラークと共にアパルトヘイトを撤廃する方向へと南アフリカを導き1994年に大統領に就任。民族和解・協調政策を進め、経済政策として復興開発計画(RDP)を実施した。1999年に行われた総選挙を機に政治家を引退した。

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TIMEが選ぶ20世紀の100人〈上巻〉指導者・革命家・科学者・思想家・起業家 徳岡孝夫/訳 1999年発行
ネルソン・マンデラ 【執筆者】アンドレ・ブリンク (一部抜粋しています)
最近のテレビ放送で、BBCの解説者、ブライアン・ウォールデンは、ネルソン・マンデラは「われわれの時代でおそらくもっとも広範に賞賛されている人物だが、過去の偉人にはかなわない」と述べた。マンデラ自身は「わたしは救世主ではない。特殊な状況のゆえに指導者となった普通の人間だ」と言う。変貌を続ける世界は、明らかに古い概念の再定義を求めている。
人種隔離と抑圧の典型である国を、開かれた民主主義国家に変えようという革命を率いる過程で、マンデラは武器を取ることも辞さなかったが、彼の本当の資質が表に現れたのは、活動家としての時代が終わってからのことだ。この間にマンデラは27年を獄中で過ごし、釈放から8年がたっていた。
ネルソン・ホリシャシャ・マンデラは、1918年7月18日、ホームランド(黒人部族別居地域)のトランスカイの奥地で生まれた。
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帰国後間もなく彼は逮捕され、ローベン島での禁錮5年の刑を言い渡された。数ヵ月のうちに、事実上、ANCの指導者はすべて逮捕された。マンデラらを待ち受けているのは、ほぼ間違いなく死刑判決だった。裁判所に引きずり出された彼が被告人席で述べた陳述は、抑圧された人々の家で、使用人部屋で、堀っ建て小屋で、黒人専用酒場で、あばら屋でくすぶり続け、世界の人々の良心に火をつけた。「わたしは生涯を通じて、アフリカ民衆の闘争に身を捧げてきた。白人支配にも黒人支配にも反対して闘ってきた。すべての人々がともに仲良く生活し、平等な機会を与えられる、民主的で自由な社会という理想を片時も忘れたことはない。これこそ自分の生涯をかけて達成したいと願っている理想だ。しかし、もしこの理念のために必要とあらば、わたしは死をもいとわない」。
合法的な出口を見つけようと試みることもなく、マンデラは全責任を引き受けた。こうした態度が彼の指導力に新たな道徳的高潔さを与え、それは彼がローベン島に戻された瞬間から如実に表れるようになった。2年前、初めて島にやって来た時も、彼は、フェリーが着いた港から刑務所の門まで走れ、という命令を拒否するという前例を作った。命令に従わないならばあっさり殺してやる、どうせ大陸の人間はだれも気づかないだろうからな、と担当の看守は、はき捨てるように言った。そこで、マンデラは静かに言い返した。「わたしに手を触れるようなまねをしたら、お前を大陸の最高裁判所へ連れて行く。最後には、おまえは罰金を撮られて教会のねずみのように貧乏になるだろう」と。驚いたことに、看守は嫌がらせをやめた。「わたしから尊厳を奪おうとする者は、人も組織も皆、負ける」と、後にマンデラは、友人がこっそり持ち出したメモに記している。
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20年以上も刑務所で暮らした後、一部の重要な問題については指導者がみずから決断を下さなければならないことを信じていたマンデラは、新しいアプローチを決意した。骨の折れる根回しの末に、この世界一有名な囚人は、みずからの釈放ばかりか、人種隔離国家から民主主義国家への転換について交渉を開始するため、極秘裏に大統領府に向かった。1990年2月2日、F、W.デクラーク大統領はANCの非合法化を解除し、マンデラの即時釈放を表明した。
本当の試練が始まったのはここからだ。一歩、歩を進めるたびに、マンデラは自分の部下の支持を勝ち取らなければならなかった。さらに難しかったのは、白人の恐怖感を鎮めることであった。しかし、マンデラが闘争に持ち込んだ忍耐、知恵、構想力、とりわけ道徳的高潔さ――彼はこれをもって分断された民衆を統合する仕事に取り組んだ――のおかげで、同国初の民主的選挙が実現し、彼は大統領に選出された。
そこからの道も平坦ではなかった。妻ウィニーにつきまとうスキャンダルに悩まされ、結局妻とは離婚した。部下の汚職に心を痛め、白人の強欲のためにズタズタにされた国に雇用を創出し、住宅を供給する公約を果たすことに気をもみ、彼はますます思慮深い人間になっていった。
その過程で、彼が頑固な自負心ゆえに間違いを犯したことは否定できない。しかし、そうした過ちを繰り返しても、自分自身の成長と高潔さによって、彼の人間性は損なわれることなく、むしろ豊かになった。

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