じじぃの「人の死にざま_404_尾形・光」

尾形光琳 - あのひと検索 SPYSEE
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尾形光琳- 燕子花図(かきつばたず) 六曲屏風 Japanese Iris Screen - Ogata Korin 動画 YouTube
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紅白梅図屏風(紅梅図)
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燕子花図
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風神雷神
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尾形光琳 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
尾形光琳は、江戸時代の画家。工芸家
尾形光琳は、後代に「琳派」と呼ばれる装飾的大画面を得意とした画派を生み出した始祖であり、江戸時代中期を代表する画家のひとりである。主に京都の富裕な町衆を顧客とし、王朝時代の古典を学びつつ、明快で装飾的な作品を残した。その非凡な意匠感覚は「光琳模様」という言葉を生み、現代に至るまで日本の絵画、工芸、意匠などに与えた影響は大きい。画風は大和絵風を基調にしつつ、晩年には水墨画の作品もある。大画面の屏風のほか、香包、扇面、団扇などの小品も手掛け、手描きの小袖、蒔絵などの作品もある。また、実弟尾形乾山の作った陶器に光琳が絵付けをするなど、その制作活動は多岐にわたっている。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
尾形光琳 (1658-1716) 58歳で死亡。 (一部抜粋しています)
絵に、蒔絵(まきえ)に、焼き物の絵付けに豊穣絢爛(ほうじょうけんらん)たる才能を見せた光琳独自の芸術は、京の「銀座」の年寄中村内蔵助というパトロンのうしろ盾によって咲いた花であった。芸術の世界のみならず、彼は内蔵助とともに快楽の人生を送った。
京の銀座は、幕府勘定奉行荻原重秀の、元禄期からの相つぐ貨幣改悪によって巨利を得、その年寄(幹部)たちの儲けも莫大なものに上っていたのである。幕府の政策による儲けだから、その豪奢な日々は永遠に安泰なものと思われた。しかるに、正徳2年、幕府に新井白石起(た)ってこれまでの貨幣改鋳政策を弾劾し、荻原重秀は倒され、4年にはパトロン中村内蔵助も全財産没収、本人は遠島の刑に処せられた。
その2年後の享保元年4月6日、光琳は満58で病死した。病名は不明。
新井白石はすでに斥(しりぞ)けられていた。それにしても徳川期第一の知識人政治家が、徳川期最大の芸術家を葬る結果となったのは歴史の皮肉である。
一見庇護(ひご)者消滅による打撃のためと見え、事実晩年の彼は経済的に窮迫していたという説もあるが、それにもかかわらず、その大難が起こった後にも、彼は京の新町に好みの「光琳屋敷」を新築している。一見窮乏したと見せかけて、現実の生活にも彼はみごとに隠し財産をを保ちつづけたらしい。
しかも、その翌年には何人目かの妾(めかけ)に男の子を生ませているところを見ると、天才の天衣無縫ぶりは憂(う)き世の習いとは最後まで別乾痕(けんこん)のものであったか。

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