じじぃの「人の死にざま_401_橋本・左内」

橋本左内 - あのひと検索 SPYSEE
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幕末の国家戦略 橋本左内 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=nx-ieAOSLjA
橋本左内 ウィキペディアWikipedia) より
橋本左内は、幕末期の越前国福井藩士。家系は足利一門のひとつ、桃井氏後裔。号は景岳。諱は綱紀。父は橋本長綱、母は小林静境の娘。実弟は明治における陸軍軍医総監・男爵の橋本綱常。著書には15歳の時に志を認めた『啓発録』がある。
【生涯】
越前国に生まれる。嘉永2年(1849年)、大坂に出て適塾で医者の緒方洪庵・杉田成卿に師事し蘭方医学を学んだ後、水戸藩藤田東湖薩摩藩西郷隆盛(吉之助)と交遊。他に梅田雲浜横井小楠らと交流する。越前・福井藩主の松平春嶽(慶永)に側近として登用され、藩医や藩校・明道館学監心得となる。
安政4年(1857年)以降、由利公正らと幕政改革に参加。14代将軍を巡る安政の将軍継嗣問題では春嶽を助け、一橋慶喜徳川慶喜)擁立運動を展開した。幕政改革、幕藩体制は維持した上での西欧の先進技術の導入、日本とロシアの提携の必要性を説くなど開国派の思想を持ち、攘夷で揺れる幕末期では危険人物とされた。
安政6年(1859年)、春嶽が隠居謹慎処分に命ぜられた後、南紀派で大老となった井伊直弼の画策により将軍継嗣問題に介入した事が問われ小塚原刑場にて斬首。(安政の大獄)享年26。
墓は吉田松陰などとともに南千住の回向院にある。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
橋本左内(はしもとさない) (1834-1859) 26歳で死亡。 (一部抜粋しています)
一橋慶喜を擁立しようとする主君松平慶永の命令に従って各方面に運動した左内は、安政の大獄に連坐する羽目となった。安政6年10月2日、幕府評定所に呼び出された彼は、そのまま伝馬町の牢へ移された。
奉行のいいがかりに近い訊問に対し、いちいち打てばひびくように応答してその罪状をはねのけた若い左内は、かえってそのために反感を買ったことを知らなかった。いや、その部脳の冴えをそれ以前から井伊大老に危険視されていることを知らなかった。
10月6日、彼は牢内から知人に、入牢以来不眠症にかかっているから睡眠薬を差入れてくれるように依頼した手紙を出している。彼はその翌日の運命を知らなかった。
翌7日午前11時ごろ、彼は呼び出され、牢内の刑場で斬首された。彼の心境やいかん。
無事放免されることと重い、迎えにいった関係者たちは事の以外に驚愕した。遺骸はその翌日に下げ渡されたが、
「頭は生けるが如き面色にて実に寂々たる光景、もっとも裃(かみしも)を着させ早桶へ下帯1つ貰(もら)い候おもむき、少々血付きこれあり」
奉行でさえ「遠島」とした擬律(ぎりつ)をみずから筆をとって「死罪」と改めたのは井伊自身であったといわれる。幕府の能史であった水野筑後守が「井伊大老橋本左内を殺したるの一事、以て徳川氏を滅ぼすに足れり」嘆じたほどの俊秀児の法外な処刑であった。

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橋本左内 Google 検索
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