じじぃの「人の生きざま_43_野坂・昭如」

野坂昭如さんの絶筆、「新潮45」1月号に掲載 新潮社
直木賞作家の野坂昭如さんが12月9日(水)に逝去されました。ご冥福をお祈り申し上げます。
新潮45」に2007年4月号から連載していた「だまし庵日記」の原稿が絶筆となりました。亡くなった日に届いた最後の原稿を掲載した「新潮45」1月号は12月18日に発売されます。
http://www.shinchosha.co.jp/news/blog/2015/12/11.html
火垂るの墓」作家の野坂昭如さん死去、85歳 2015年12月10日 東洋経済オンライン
火垂るの墓」などの作品で知られる直木賞作家の野坂昭如さんが9日に亡くなったことがわかった。85歳だった。
野坂昭如さんは、9日午後9時過ぎ、東京・杉並区にある自宅で、意識がないのを妻が発見したという。野坂さんはその後、病院に搬送されたが、午後10時半頃、死亡が確認された。
野坂さんは1930年、鎌倉市に生まれ、1968年に「火垂るの墓」・「アメリカひじき」で1967年度(下半期)の直木賞を受賞した。また、「おもちゃのチャチャチャ」の作詞や参議院議員としての活動など幅広く活躍していたが、2003年に脳梗塞で倒れて以降は、妻が在宅介護をしていたという。
http://toyokeizai.net/articles/-/96171
野坂昭如 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E9%87%8E%E5%9D%82%E6%98%AD%E5%A6%82/5405/
マリリンモンロー ノーリターン 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=d4HiKH9dzIo
野坂昭如 ウィキペディアWikipedia) より
野坂昭如(のさかあきゆき、1930年(昭和5年)10月10日 - 2015年(平成27年)12月9日)は日本の作家、歌手、作詞家、政治家。
放送作家としての別名は「阿木由紀夫」(あきゆきお)、シャンソン歌手としての別名は「クロード野坂」、落語家としての高座名は「立川天皇」、漫才師としての野末陳平とのコンビ名は「ワセダ中退・落第」。
現在は脳梗塞のリハビリを続けながら執筆活動を行なっており、テレビ・ラジオには出演していないが、TBSラジオ『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』の「野坂昭如さんからの手紙」という9時半台のコーナーで毎週近況を報告し、月刊誌新潮45に「だまし庵日記」、毎日新聞に隔週で「七転び八起き」、週刊プレイボーイに「ニッポンへの遺言」を執筆中。妻が撮影した写真が連載に掲載されている。
【経歴】
父は土木技師で戦後に新潟県副知事を務めた野坂相如。当時野坂家の住いは東京市麹町区隼町だったが、産み月近くなって両親が別居。昭如は神奈川県鎌倉市小町で誕生した。
上の妹を病気で、1945年の神戸大空襲で養父を、下の妹を疎開先の福井県で栄養失調で亡くした。後に福井県で妹を亡くした経験を贖罪のつもりで「火垂るの墓」を記した。つまり清太のモデルが彼自身で、節子のモデルは妹ということである。17歳の時、下宿先の親戚の家で窃盗を働いて多摩少年院東京出張所に送致されるが、実父が保証人となり釈放され、旧制新潟高校編入。なお、高校の上級生に丸谷才一がいた。
旧制高校在学中に学制改革が起き、1949年に新制新潟大学に入学するも3日で退学。「多くの同級生が東京の大学へ入り、夏休みに戻って来ても、相手にしてもらえない、後で知ったのだが、酒に溺れて気が狂ったという噂が立っていた」(『赫奕たる逆光』)。上京し果物屋でアルバイトをするが、1950年、シャンソン歌手を志して早稲田大学仏文科に入学。
文壇界きっての犬猫好き、酒好きである。酒に関しては、高校時代に酔っ払って真っ裸で深夜の街を歩いたり、また大学時代に酔っ払って教室の窓から入ったり、などの逸話を残している。その後、1952年に自主的に精神病院に入院して治療をしてからは、酒乱の癖はおさまったという。また、「趣味の雑誌『酒』昭和47年新年特別号」の付録「文壇酒徒番附」において、東方横綱立原正秋と共に列せられている。ちなみに、東方大関三浦哲郎池波正太郎、西方横綱梶山季之黒岩重吾大関吉行淳之介瀬戸内晴美などがいる。
放送作家野坂昭如
本邦のテレビ黎明期において放送作家として活躍していた。 放送作家としての筆名は阿木由紀夫。一度だけ『シャボン玉ホリデー』の台本を書いたが、いくつかの歌の曲名と「板がズラッと並んでいる。これがホントのイタズラ」といったつまらない駄洒落を3つ4つ並べただけで全く使い物にならないため、仕方なく青島幸男が書き直したという。
【歌手・野坂昭如
作家・野坂昭如は・歌手活動もしている。歌手名はクロード野坂。歌手名の「クロード」は「玄人」をもじったものであり、「シロウトではないという意味」だとされる。「黒の舟歌」、「マリリン モンロー ノーリターン」、本人出演のCM曲「サントリーゴールド」が代表曲。
「バージンブルース」は戸川純のカバーでも知られる。また「バージンブルース」はその曲をモチーフに、藤田敏八監督により同題の映画化がされており、野坂もゲスト出演して歌を歌っている。また、野坂と同じく作家・音楽家として活動する中原昌也暴力温泉芸者名義のアルバムで「黒の舟歌」と「サメに喰われた娘」の二曲をカバーしている。
1970年代には大学の学園祭の人気ゲストであり、女子大で四文字言葉を連発するなど挑発的なステージであった。その模様は大森一樹監督の自主映画『暗くなるまで待てない!』(1975年)にも収録されている。永六輔小沢昭一と「中年御三家」を名乗り、不定期に舞台に立った。独特のダンディズムを持った唄世界には定評があった。クレイジーケンバンドのライヴにもゲスト出演し共演を果たしている。その様子はライヴ盤『CKBライヴ 青山246深夜族の夜 ~ Special Guest 野坂昭如』にも収録されている。

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新潮45 2016年1月号
だまし庵日記 野坂昭如 (絶筆) より
12月9日
暮れというと思い出す。
毎年今頃になると、飲み屋へのツケ払いに奔走していた。
払うのは当たり前の話だが、1年まとまるとなると、一瞬、反省の気持ちが過らないでもない。意を決して街へ出掛けるのだが、支払ったついでに、つい一杯、一杯が……覚えちゃいない。
毎年同じことのくりかえし。
今のぼくには、何も変わることもない、つまり、面白くもおかしくもない明け暮れだ。小説のネタなど、考えなくもないが、いやいや、寝るのが一番。怠け癖を反省の気落ちもあるが、なるほど、こんな風にして年は移りゆくかと他人ごとのように思ったりしている。
秋のはじめに誤嚥性肺炎とやらに見舞われ、スッタモンダ。どうにか息を吹き返したらしい。あせらない、あせらないと妻が呪文のように唱えているが、ぼくはちっともあせっちゃいません。さて、もう少し寝るか。
この国に、戦前がひたひたと迫っていることは確かだろう。

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『絶望的楽観主義ニッポン 戦争を知らない大人たちへ』 野坂昭如/著 PHP研究所 1999年発行
まだ、8月15日が続いている より
昭和20年前後、赤ん坊を抱えた母親、父親はたいへんだったと思う。
この子供たちが、いわゆる団塊の世代、べつの言葉でいえば、戦争を知らない連中。ぼくの父親に当たる世代は、戦争遂行について、中核となった年齢、彼らはがっくりしたろうが、それこそ大正リベラリズムの風潮の中で、大人となった。例の心理学でいえば、人格形成期は明治時代、戦争に負けることがどういうものか心得て、戦後に対処した。しかし彼らにしても、アメリカ民主主義の中で、すでに15、6となっている子供たちの将来をどう考えていたのか。子供たちの規範となるべきものを創り出せないまま、戦後の混乱をとりしきり、つぎに、団塊の世代の親たちが、20年代、戦後復興をのみ大義として生きた。
昭和ヒトケタが、社会の軸となったのは、40年あたりからだろう。
ぼくでいえば、この年35歳、東京五輪の後、大阪万博を頂点とする高度経済成長の時代、民主、平和、平等、そして人権を口にしつつ、わが世の春を謳歌、いくらかの紆余曲折はあったものの、バブルで浮かれたのはヒトケタ、この責任をうやむやにし、今、背の中を退きつつあるのがヒトケタ。
現在の若者の無軌道無規範、前途に何の希望も抱き得ない世の中を創ったのは、間違いなくヒトケタ。何の典型も示し得なかった、まだ、8月15日が続いている。
戦争について知っているつもり。戦前の雰囲気も心得る。アメリカに植民地、属国とされてしまったこの国の醜さを心得ながら、かって戦時中、「何しろ俺たちも軍国少年だったからなあ」と酒酌み交わし、往年の戦意高揚歌を歌い、もはや、若者について考えもしない。
ぼくは、2歳までとか6歳まで、あるいは15歳までに人格、ものの見方の基礎が培われるという説を思う時、これは当時の大人もいけなかったが、ものを考えない、戦争について、すべて他人ごと、上の空でやり過ごし、ただ調子良くその日の暮らしの性癖を、昭和ヒトケタは。15歳までと、いちおう自分を芯に考える。
戦争責任、繁栄責任がある。ヒトケタは、「無責任」責任。
しかし、この責任とりようがないことも事実、「責任」など口にすること自体、偽善、自己弁護であろう。
地獄を経験しなければ日本の再生はない より
古めかしいことを申し上げているとの自覚はもとよりある。しかしあえていう。
人間が生きていく上での大事は、「もったいない」と、「人を恋する気持ち」。
もったいないの基本は、食いものに関わる。自らの生を養う食べ物に就いて、畏れうやまうことを忘れ、おろそかにするならば、人間の営みは、醜く、また卑しいものとなる。
いかなる美徳を身に備えていようともすべて帳消し。
戦後の日本人は、別にことさら卑下、また自虐的にいうのではない、人類出現以来、もっともみっともない生き方を、それぞれが気づかず、日々営む。人間づき合いにおける、最小限のルールを守らず、自分だけよければいい、他人の立場にたって考えることをしない。想像力の欠如、その場凌ぎ、ひっくるめて、小賢(こざか)しく、いい加減。これは外国人、異なる文化伝統の基準を以ってする評価ではなく、地球上の「生きもの」として、みっともなくなってしまった。遠因を極端にいえば、食事の際に、「いただきます」をいわなくなった。このほとんど言葉としては、意味を持たない「挨拶」を忘れてしまった、棄てたことに集約される。
人間、食わなければ、死ぬ。海辺に貝類を拾い、山野で野草を摘み、木の実を拾っていた時代だって、湯を注いで3分、インスタントにラーメンの食える当節だって、基本は変わらない。自然の恵みのよってこそ、生命を維持し得るのだ。
天地の恩に感謝するといえば、まさに大時代、今時、通用し難いにしろ、少し考えれば、生産者消費者の別なく、日々、つつがなく食い物を口にし得るのは、奇蹟の類いといっていい。事実、地球人口の3分の1は、常に飢餓と背中あわせなのだ。
文明の進展など、まったく関係ない。早い話が、今の日本の場合、アメリカ中西部に旱魃(かんばつ)が襲い、オーストラリアに虫害が発生したら、いかにドルを保有していたって、日本民族は絶滅する。
わが国は、気候温暖、地味豊か。農耕技術も進んでいて、飢えの時代など到来するはずはないと信じこんでいるのなら、大間違い。食料自給率3割といっても、ほとんどの者に実感はない。
数字だけで考えれば、わが国で獲れる食いものだけじゃ、1億2000万の国民の、約4000万人しか生きのびられない。これは嘘である。4000万に選ばれるため、内乱が起る。もし、平等に分けるなら、すべて死んでしまう。
この例は、きわめて次元の低いものだが、しごく当然のように、残飯を年2000万トンも出している状態は不自然、人間が生きる上での根本が歪んでいれば、その日々も歪む。
飢えの時代、まず、死ぬのは老人、子供である。自分の体験にこだわるわけじゃない、歴史が如実に示している。そして、生物として考えればこれは当たり前、老人は社会的に、いなくてもいい、知恵を伝授するための、ごく少数が存在してりゃ足りる。
子供が死んでも、生殖年齢にある者が、辛うじて残っていれば、せっせと励み、次の世代につなぎ得る。
ぼくは、一度、こういった、いわば地獄を、経験しなければ、日本の再生はないのではないかと考える。生きるということは、どういうことか、身に沁みて体得しなければ、判らないのではないか。べつに株が下がった、金融恐慌の足音が近づいて来たといって、自分勝手に、取越し苦労しているわけじゃない。経済とやらの、こういった現象は、寄せては返す波の如きもの、騒動が「金」にとどまっている分には、大過ない。
金を粗末にする、つまり後先考えず浪費したって、どうってことはない。外国で、むやみに札びらを切り、軽蔑されたところで、一つの現象に過ぎない、
しかし、食い物をおろそかにすれば、他人がどうみるなんてことじゃなく、当人の死につながる。
人間いつかは死ぬ。日々の積み重ねは、死への道のりなのだが、だからこそ大事にしなければならない「生」のあり方、形、心を、まともにする大本は食いものを大事にすること。なまじ恵まれた自然の中で、日本人は、戦争末期、戦後数年間続いた飢餓の時代、これだって大したことじゃなかった。
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食べるに当たって形は大事、テーブルマナーをいうのではない。まったく年寄りめいたことを文字にしている感じだが、「ありがたい」と、そういちいち思う必要はないが、これが食いものとのつき合いの基本、少なくとも人類の原理。

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