じじぃの「人の死にざま_376_森繁」

森繁久彌 - あのひと検索 SPYSEE
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加藤登紀子 知床旅情 動画 YouTube
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森繁久弥の朗読と歌 動画 YouTube
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(追悼) 〜森繁久弥の話芸〜 動画 YouTube
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森繁久彌 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
森繁久彌もりしげひさや、1913年5月4日-2009年11月10日)は、日本の俳優、コメディアン。最終期はアクターズセブン所属。身長171cm、体重78kg、血液型はB型。 大阪府枚方市出身。
【学生時代】
堂島尋常高等小学校、旧制北野中学校、早稲田第一高等学院を経て1934年に早稲田大学商学部へ進学。在学中は演劇部にて先輩部員の谷口千吉山本薩夫と共に活動。この頃に萬壽子夫人(当時、東京女子大学の学生)と知り合う。その後、山本らが左翼活動で大学を追われてからは部の中心的存在となりアマチュア劇団に加わり築地小劇場で『アンナ・クリスティ』を上演した。
【演劇の世界へ】
1936年、必修とされていた軍事教練を拒否して大学を中退。長兄の紹介で東京宝塚劇場(現・東宝)の東京宝塚新劇団へ入団。その後は日本劇場の舞台進行係を振出しに東宝新劇団、東宝劇団、緑波一座と劇団を渡り歩く。下積み時代は馬の足などしか役が付かなかった。日劇藤山一郎ショーの舞台進行を務めた時、藤山に頼み込み通行人の警官役で舞台に立つも全くウケなかったなどの辛酸を嘗めた。座長の古川ロッパに認められた緑波一座では、盟友となる山茶花究と出会う。1937年、退座。
1939年、NHKアナウンサー試験に合格し満洲に渡る。満州電信電話の放送局に勤務。満洲映画協会の映画のナレーション等を手掛ける。甘粕正彦とも交流があった。満州巡業に来た5代目古今亭志ん生、6代目三遊亭圓生らとも親交を結ぶ。この頃、新京の劇団に所属していた芦田伸介と知り合う。
1955年、豊田四郎監督の『夫婦善哉』に淡島千景と共に主演。この映画での演技は、それまで数々の映画に出演して次第に確立していった久彌の名声を決定的なものにした。同年、久松静児監督の日活『警察日記』で田舎の人情警官を演じこれも代表作の一つとなる。これにより、単なるコメディアンから実力派俳優へと転進する。
1959年の第10回から1965年の第16回まで、7年連続で歌手としてNHK紅白歌合戦に連続出場。このうち、第10回は森繁の歌のラジオ中継の音声が現存し、第14回(1963年)と第16回は映像が現存する。第10回は2009年4月29日放送のNHK-FM『今日は一日“戦後歌謡”三昧』の中で、森繁の歌も含め全編が再放送された(音声はモノラル)。第14回と第16回はNHK-BS2で再放映されている。
1960年、『知床旅情』を作詞作曲し自ら歌うシンガーソングライターとしての活動もしていた。同曲は1970年に加藤登紀子によってカバーされた。
【晩年】
2003年に90歳を迎えたことを機に、作家・演出家の久世光彦と<語り森繁、文は久世>の形で『大遺言書』を週刊新潮に連載し、題名どおり最後の仕事とするつもりだった。だが、2006年3月に22歳年下の久世が急逝し、同3月6日、久世の通夜に参列。「どうして僕より先に逝っちゃうんだよ…」と嘆き、この通夜が公の場での最後の姿となった。なお、単行本4冊が新潮社で刊行された。
2009年8月、同年7月に風邪を引きそのまま8月3日に至るまで入院中である事が発表された。
11月10日午前8時16分、東京都内の病院で老衰のため死去。96歳没。ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』の3代目テヴィエ役を担当した西田敏行や『知床旅情』のカバーをした加藤登紀子をはじめ、森光子、黒柳徹子司葉子中村メイコ中村玉緒和田アキ子等、多くの芸能関係者が彼の訃報を受けて追悼と哀惜の思いを込めたコメントを発表している。また、映画評論家の白井佳夫は森繁をマルチタレント1号と評しその死を悼んでいる。
【社長シリーズ】
社長シリーズは、東宝が1956年から1970年までに製作した喜劇映画のシリーズ。主演の森繁久弥は、同じく東宝の人気喜劇映画『駅前シリーズ』にも同時期に並行して出演し、東宝の興行を支えた。

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『生きていりゃこそ』 森繁久彌/語り 久世光彦/文 新潮社 2005年発行 (一部抜粋しています)
奇人・変人
「いやあ、昔は変わった人がよくいました−−」
森繁さんといっしょにいると、話題に中に奇人、変人の話がよく出てくる。古い役者仲間のこともあれば、昔の中学の友だちや先生の話もあり、時には実際に会ったことのない、噂や小説の中の人物だったりもする。とにかく、いわゆる「変わった人」が殊(こと)の外(ほか)お好きなのだ。
だいたい、奇行、奇癖の持ち主や珍談、奇談の主人公は人気があって、以前は「−−3奇人」といった話をあちことで聞いたものだ。たとば30年ほど前までは「文学座3奇人」というのがあって、北見治一、高木均、稲垣昭三の3人が挙げられるのが通り相場だったが、彼らの珍エピソードを面白可笑(おか)しく世間に吹聴する北村和夫さんが、そこにもう一人加わって「文学座4奇人」と言われたこともあった。北見さんと高木さんは残念なおとに亡くなったが、顔触れがこうした役者さんの場合は、「芸に没頭するあまり」の奇行というのがほとんどだった。
森繁さんの話によく出てくるのは左卜全(ひだりぼくぜん)、上田吉二郎、益田喜頓加藤嘉(よし)、田中春男山茶花究(さざんかきゅう)などの面々で、女優さんは少なく、たまに登場するのが、三好栄子さんと千石規子さんぐらいなものだろうか。50歳以下の方には馴染みはないだろうが。こうした人々の様子というか生態を、森繁さんは声色(こわいろ)入りの仕方話で模写してみせる。これが巧(うま)い。巧いからお腹の皮がよじれるほど可笑しい。奇人変人マニアの中野翠さんなどに見せたら、涎(よだれ)を垂らすに違いない。
だが森繁さんは、彼らを単純に面白がっているのではない。刺身のツマにしてからかっているのでもない。森繁さんの「生態模写」には、愛着と羨望と、もっと言えば畏敬のようなものが見てとれる。憧れといっていいのかもしれない。憧れというのは、自分にないもの、自分にはなれないものへの熱い思いのことだ。たぶん森繁さんには、山茶花さんの「虚無」がキラキラ輝いて見えたのだ。卜全さんのボロ布(ぎれ)みたいな「無垢」に、いいくらもがいてみても、手が届かなかったのだ。それらは、いずれも森繁には「ないもの」だったのである。
森繁さんは頭が良すぎて、隙(すき)というものを見つけにくい人だ。博識でユーモアのセンスがあって、何よりも群を抜いて芸が達者である。尊敬され、敬慕され、いつも拍手に包まれていた。−−ところがある日、森繁さんは、ふと寂しくなった。冷たい風が裸の下腹部を吹きぬけたように思った。これはいったい何なのだろう。立ち止まったら、ちょっと膝が崩れた。昨日まで知らなかった心許(こころもと)なさが足元に這い寄っている。それは、仰々しく言えば、太陽の悲しみであり、王の孤独だった。
森繁さんは、自分と比べれば、十把(じっぱ)一からげみたいな奇優、珍優たちが無性に羨ましく、その不思議な輝きが眩(まぶ)しく、みんなに笑われる彼らの奇行が、あたかも魔術のようにおもわれたのだ。そのころ森繁さんは、既に細部、末端の芝居に執着するには似つかわしくない地位に置かれていたのだ。常に王道をいくのが、森繁さんの宿命だった。数々の賞に飾られて、森繁さんは、赫々(かっかく)たる日輪だったのである。
太陽が、自分を取り巻く惑星に嫉妬、羨望するのは妙なことだが、私はそれがいかにも森繁さんらしい、芸への、あるいは人間というものへの、真摯(しんし)な姿勢なのだと思う。奇人、変人と言われる人には、何とも言い難い魅力と、真実があることをいちばん承知しているのは、他ならぬ森繁さんだと、私は思うのだ。
「奇人伝」とか「畸人伝」とかいう書物が、昔からたくさんあるのはそうした類(たぐ)いが、多くの人に好まれて読まれるからだ。「畸」は「奇」とほぼ同じ意味だが「畸人」というと「奇人」の他に「世俗に拘(こだわ)らない人」とか、「異形の人」のことをいうこともある。「日本浪漫派」の保田與重郎に『現代畸人伝』という、有名無名の高貴な精神の持ち主を賛美する戦後の著作があるが、ここに取り上げられている人たちは、どの人も世間では「変わり者」として扱われた人物ばかりであった。
私の古くからの友人で、テレビ局にいたときの朋輩でもあった、宮田吉雄という奇妙な男がいる。40年来、周囲の彼を知る人たちから、大雑把(おおざっぱ)にいえば「変な人」と言われて今日に至る。他に「不思議な男」「面白い人」「人を食った奴」と、一種の敬意をこめた尊称は多々あるが、何にしても恐ろしくスケールの大きな知的怪物なのである。「誰々のような」と喩(たと)えられる人がいない。
表に現れた現象の例を挙げれば、重い物を胸の上に抱いて寝ると淫らな夢を見ると言う言い伝えを信じて、毎夜、原語の『ウェブスター』の辞書を胸に載せて眠る。古今の映画の生き字引で、たとえばジョン・ウェインの「アラモ」の撮影カメラマンの名前を、プールで泳ぎながら即座に答えてみせる。その世界では有名な「ゲテ物食い」でアフリカ猿の睾丸(こうがん)を食わせる店があると聞くと、下関までかけつける。オペラと怪奇物語と、19世紀フランスの高踏詩に通じ、自分の娘に作曲者プッチーニの歌劇「トゥーランドット」のヒロインの名をとって「理生(りう)」と名付けた。言ってみれば「早過ぎた京極夏彦」であり、「遅れてきたルキーノ・ヴィスコンティ」なのである。
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この「大遺言書」にしても、宮田に書かせたらどんなにか面白いだろうと思うことがある。冷静で、皮肉で、可笑(おか)しなギャクだらけで、そのくせ瑞々(みずみず)しいロマンティシズムの漲(みなぎ)った文章になることだろう。私などとは桁違いの、茫洋たる「大畸人」なのである。
40年前のオリンピック
その日、私は国立競技場のスタンドのいちばん高いところに立って、真正面に見下ろすゲートから、世界各国の選手たちが入場するのを待っていた。指定席の券を以っているのに、私は開会式の3時間も前から、その時刻がやってくるのを、妙に静かな気持ちで待っていた。時間が早かったせいか、辺りはそれほど騒がしくなかったのを、私は40年経ったいまも憶えている。
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テレビの前で、森繁さんは坐りっきりに違いない。森繁家のテレビはアテネオリンピックのために、元々大きかったのだが、また一回り大きくなった。森繁さんはスポーツが大好きである。それ以上に「日本」が大好きである。だからライヴの放送も見るし、その日のハイライトも見るし、総集編も見る。仕事なんか割り込む暇がない。「大遺言書」のインタビューも、ここしばらくは夏休みである。
メインポールに1本でも多く、日の丸が揚がるといい。森繁さんは起立こそしないが、背筋をピント伸ばし、引き締まった顔で日の丸を見つめる。耳の具合が悪いので、その間だけテレビのボリュームを上げる。家中に「君が代」が鳴り響く。
けれど、あまり度々だと体に障って困る。日の丸の度に、ブランデーのお湯割りで祝杯をあげるからである。しかも今度のオリンピックはライヴの場合、夜中が多い。私だって、このところ寝不足なのだから、91歳の体にいいわけがない。だが一方、夢中になるものがあると、人間は元気になる。顔色がよくなり声も大きくなる。まあ結構なことと、自然に委せるしかあるまい。
オリンピックと言えば、元々森繁さんとオリンピックは縁が深い。40年前、オリンピックの東京誘致に功績の多かった菅沼俊哉氏は、森繁さんの実のお兄さんだった。つまり森繁さんは大正2年枚方で生まれたとき、菅沼久彌だったのが、7歳で母方の祖父の姓を継いで、森繁久彌を名乗るようになったのだ。菅沼家は関西の名家で、お父さんは菅沼達吉といった。俊哉氏は東京オリンピックの組織委員を務められ、「オリンピックの菅沼」と呼ばれて、当時有名だった。
「私は3人兄弟の末弟でした。兄たちは「まとも」な堅気でしたが、私だけは役者なんぞになりまして、家名に傷をつけたようです。俊哉兄は「共同通信」にいましたが、オリンピックの東京開催に、一生の夢を賭けていました。そうですか。あれから40年ですか−−兵(つわもの)どもの夢の跡ですねえ」
森繁さんに、こんな詩がある。
≪うらうらと日は流れ
 さびさびと年はゆき
 黒髪はしらじらと変わり果てた
 でも時おり 出ぬ声をふり絞って
 ひとり 日となきところで歌う
  それは己に聞かせる
  赤錆びた 男のつぶやきだ
 今日も その男が歌声が
 いやが上にも高い天の
 光の中に
 わびわびと 消えてゆく≫
40日も真夏日がつづく、テレビで見るアテネの空も、鰯雲が流れて青い。けれど私の記憶の中で、真正の青空といえば、それは昭和20年8月15日と、昭和39年10月10日−−東京オリンピック開会式の朝の青空である。いつか見た青い空−−人は一生のうちに、忘れられない青空を幾度か見る。森繁さんが仰いだ天も、わびわびと青かったのだろう。そしていま、森繁さんはどんな思いで、今日の青空を眺めているのだろう。夏が逝き、やがて秋がやってくる。

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知床旅情 作詞・作曲 森繁久彌
1.知床(しれとこ)の岬に はまなすの咲くころ
  思い出しておくれ 俺たちのことを
  飲んで騒いで 丘にのぼれば
  遥(はる)か国後(くなしり)に 白夜(びゃくや)は明ける
2.旅の情(なさけ)か 酔うほどに さまよい
  浜に出てみれば 月は照る波の上(え)
  君を今宵こそ 抱きしめん
  岩かげに寄れば ピリカが笑う
3.別れの日は来た ラウスの村にも
  君は出て行く 峠を越えて
  忘れちゃいやだよ 気まぐれカラスさん
  私を泣かすな 白いかもめを

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森繁久彌の言葉
「そんなに大層なことは、この世の中に一つもない。大概笑ってごまかせることだ」

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