じじぃの「人の死にざま_375_トニー・谷」

トニー谷 - あのひと検索 SPYSEE
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さいざんすマンボ 動画 YouTube
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トニー谷in歌う弥次喜多黄金道中 動画 YouTube
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トニー谷 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
トニー 谷(1917年10月14日-1987年7月16日)は東京出身のヴォードヴィリアン。本名、大谷 正太郎(おおたに しょうたろう)。
リズムに乗りそろばんを楽器のようにかき鳴らす珍芸が売りで、妙な英単語を混ぜたしゃべりは「トニングリッシュ」と称された。短めのオールバックにちょび髭、吊りあがったフォックスめがね(ロイド眼鏡)がトレードマーク。
【隠された過去】
芸能界時代は本名すら偽っており、「谷 正」という名を本名として名乗っていた(後年、東京都大田区新井宿の自宅表札では「多仁」と表記)。
家庭事情は複雑で、暗い幼少期を送っている。後年のギャグ「家庭の事情」の裏側には、下記のような重い歴史が隠されている。
東京市京橋区銀座に生まれ、東京市日本橋区小伝馬町に育つ。実の母は長唄の師匠。しかし妊娠中に実父は死亡し、血縁上の伯父を戸籍上の父として届け出た。戸籍上の父は電気器具商。愛情のない父に虐待されて育ち、ひどく苦しんだという。
子供のころは下町で有名なそろばん塾"大堀塾"でそろばんを学んでいた。小学校時代から成績優秀で、地元の名門である東京府立第三中学校(現東京都立両国高等学校)に入学。英語と図画が得意だったものの、学問よりも家業を優先すべしとの父の命令で1933年に中退し、神田の電機学校(現東京電機大学)に通わされた。1934年に実母が病死、ついに実の父母ともに失った。戸籍上の父は再婚、父と継母にとってトニーは他人であり、トニーへの虐待がますます深刻になった。
【一躍、人気芸人に】
1949年、日米野球のため米プロ野球サンフランシスコ・シールズ軍が来日した。芝のスポーツセンターにおける歓迎会の司会は松井翠声が務めるはずだったがスケジュールの都合で出られず、トニーが司会の代役を務め、電撃的な芸人デビューを果たした。以後、「さいざんす」「家庭の事情」「おこんばんわ」「ネチョリンコンでハベレケレ」「レイディースエンジェントルメン、アンドおとっつぁんおっかさん」「バッカじゃなかろか」など独特の喋りで爆発的な人気を博す(なお「ざんす」調の始まりは、トニーが宝塚の新藝座に出演したとき、毎日宝塚会館へダンスに通って、そこで知り合った芦屋の有閑マダムとの会話からヒントを得たという)。世間がジャズブームの波にのると、トニーはジャズコンサートの司会者として引っぱりだこになり、芸能界の寵児と呼ばれた。1951年には「帝劇ミュージカルズ」第1回公演「モルガンお雪」で榎本健一古川ロッパや宝塚在籍時の越路吹雪と共演。東宝に芸人として専属となり、舞台は日劇ミュージックホール、映画は東宝映画・宝塚映画中心に出演。三木のり平森繁久彌柳家金語楼らと共演が多い。出演映画は1953年には20本に上り、総数で100本を超える。
トニー谷によって発掘された芸能人にE・H・エリック岡田眞澄兄弟がいる。
【晩年】
1982年1月30日、日本テレビ『今夜は最高!』に出演、「米軍相手のショウでやっていたという」ハナモゲラ語モドキの言葉を発し、タモリと意気投合した。ちなみに、トニーの再評価をうながした小林信彦の『日本の喜劇人』では、初期のタモリは「トニー谷の系譜を継ぐ芸人」と位置づけられており、お笑い界の新旧交代劇とでもいうべき対面だった。
その数年後、渋谷駅で偶然に出くわした永六輔に声をかけたが、トニーが長年つけていたカツラがなかったため、永はトニーとわからなかったという。永はトニーの再度の「復活」に手を貸し、1986年6月25日には渋谷ジァンジァンにて「六輔七転八倒九百円十時」に出演。さらにはみのもんた司会のテレビ東京「爆笑おもしろ寄席」(生放送!おもしろ寄席の前身)にも出演、浅草演芸ホールの高座でそろばん芸を演じ、生中継された。東宝名人会以外の東京の寄席への数少ない出演でもあり、これが最後のテレビ出演となった。 最後の舞台となったのは同年12月26日に渋谷ジァンジァンにて開催された「トニー谷ショー」である。
1987年7月16日午前0時14分、都内の病院にて肝臓がんのため死去(69歳)。 長男の誘拐事件以来マスコミ嫌いを貫き通し、特に「新聞記者の取材おことわり」の姿勢は終生変わらなかった。「マスコミのさらし者にはなりたくない」という故人の遺志をくんで訃報も身内や友人だけに伝えられ、葬儀も密葬という形で済ませた。

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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
7月16日−トニー谷 (タレント・69歳)
幼い頃、養父(叔父)からせっかんされたことにより心に深い人間不信を持ったが故か、トニー谷は誰をも信じることが出来なかったという。
いわば、トニーイングリッシュを使って、毒舌とキザを売り物にして嫌われる芸人として売り出したのは人生を逆手に取った彼流のやり方だったのだ。
口ひげ、ポップメガネに蝶ネクタイといういでたちで世に出たトニー谷は時代の流行語の仕掛け人だった。「さいざんす」、「家庭の事情」、「バッカじゃなかろか」 etc。
長男誘かい事件を機にトニー谷は"嫌われ者"のレッテルを自ら外したところ、人気は急降下した。
このあたり、大衆の微妙な真理をかいま見るようで面白い。

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トニー谷 Google 検索
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