じじぃの「人の死にざま_365_仁科・芳」

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理研紹介映画『科学の殿堂』ダイジェスト版(昭和17年制作) 動画 YouTube
http://il.youtube.com/watch?v=tDWSiLhU3Qc&feature=channel
仁科会館ホームページ
http://www.kagaku.nishina.town.satosho.okayama.jp/
仁科芳雄 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
仁科芳雄(にしなよしお、1890年(明治23年)12月6日-1951年(昭和26年)1月10日)は、日本の物理学者である。岡山県浅口郡里庄町浜中の出身。日本に量子力学の拠点を作ることに尽くし、宇宙線関係、加速器関係の研究で業績をあげた。湯川秀樹朝永振一郎らの後のノーベル賞受賞者たちを育て上げ、「日本の現代物理学の父」とも呼ばれている。
死去から4年後の1955年、原子物理学とその応用分野の振興を目的として仁科記念財団が設立された。この財団では毎年、原子物理学とその応用に関して著しい業績を上げた研究者に仁科記念賞を授与している。
【生涯】
岡山県浅口郡里庄町浜中で父・仁科存生と母・津禰の四男として生まれる。
1920年理化学研究所の研究員補となると翌1921年には2年間のヨーロッパ留学が決まり、4月5日に神戸港を出て日本郵船の北野丸でマルセイユに渡った。最初にケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所に滞在し、翌1922年11月にゲッティンゲン大学に移った。
1923年4月にコペンハーゲン大学のボーアの研究室に移った。ここでは研究員として5年半過ごし、1928年にはオスカル・クラインとともにコンプトン散乱の有効断面積を計算してクライン=仁科の公式を導いている。
帰国後は招待してくれる大学がなく、理研長岡半太郎研究室に所属し、1929年にはヴェルナー・ハイゼンベルクポール・ディラックを日本に招いている。1931年7月に理研で仁科研究室を立ち上げ、当時国内では例のなかった量子論原子核X線などの研究を行なった。翌年に中性子が発見されるとX線の代わりに宇宙線を研究対象に加えた。1937年4月には小型のサイクロトロン(核粒子加速装置)を完成させ、10月にボーアを日本に招いている。1939年2月には200トンもの大型サイクロトロン本体を完成させ、1944年1月から実験を始めた。
1951年、肝臓がんで逝去。60歳。
【人柄、その他】
理化学研究所時代の弟子からは慕われ、「親方」と呼ばれた。ドイツ滞在中に励ましの書簡を送られた朝永振一郎は、仁科を「温かく親しみやすかった」と評している。また、湯川秀樹は新粒子予言のさいにボーアから批判を受けたが仁科はこれをかばい、後に湯川は「非常に鼓舞された」と語っている。
なお月のクレーター "Nishina" は彼にちなんで名づけられた。Nishina の直径は約65kmで、緯度44.6S、経度170.4Wに位置する。

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『考える人 日本の科学者100人100冊』 新潮社 2009年発行
仁科芳雄 『仁科芳雄みすず書房 日本の科学の基礎を築いたライトスタッフとはなにか 【執筆者】山本貴光 (一部抜粋しています)
「先生は日本人の間ではまれにみる精力、幅のひろい理解力、遠大な見とおしと、あくまでそれを実現しようとする熱意をもつ、日本に欠くことのできない人物であった」。これは朝永振一郎が仁科を評した言葉である。
東京帝国大学大学院で学んだ後、理化学研究所からラザフォードの下へ派遣され、さらにボーアに師事、師の長岡半太郎同様、日本の科学は西洋の水準に達しえないとの思いを抱きながらも、ボーアに接して考え直したという。実際、量子論という新理論の生成過程に立ち会った仁科は、クライン=仁科の式によって物理学に理論的な貢献を果たしている。
1928年の帰国後、ハイゼンベルグディラックを日本に招聘して、湯川や朝永ら若き科学者たちに大いなる刺激を与えたのを手始めに、仁科は科学の国際交流をプロデュースしてゆく。
他方、理研で研究所を構えると、大小2つのサイクロトロン(粒子加速器)建造を計画。幾多の問題をクリアして感性にこぎ着けると、物理実験のみならず、生物学への応用を促している。
残念なことに2つのサイクロトロンは戦後に破壊されてしまうが、占領軍が理研に解体命令下すと、所長に就任していた仁科はここでも疾走し、利権を株式会社科学研究所に改組することで、研究の存続を守り抜いた。
日本科学のインフラ整備に注力した仁科に、朝永の言う資質がどれか一つでも欠けていたとしても、こんなことは成しえなかったに違いない。

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