じじぃの「人の死にざま_361_高木・貞治」

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多面体描画道楽 SketchUpで正12面体を作ってみた 動画 YouTube
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日本数学会高木貞治50年祭記念事業
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高木貞治 ウィキペディアWikipedia) より
高木貞治(たかぎていじ、1875年4月21日-1960年2月28日)は、日本を代表する数学者の一人。
【概要】
岐阜県本巣郡数屋村(現・本巣市)に生まれる。岐阜尋常中学校(現・岐阜県立岐阜高等学校)を経て第三高等中学校(現・京都大学)へ進学し、1894年に卒業。
帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)数学科へ進み、卒業後にドイツへ3年間留学。ヒルベルトに師事し、多大な影響を受ける。
代数的整数論の研究では類体論を確立し、クロネッカーの青春の夢を解決した。これは、その後の日本の数学の発展に影響を与えた点でも重要である。
『解析概論』『初等整数論講義』『代数的整数論』など多くの定評ある数学教科書を著し、これらは、現在でも多くの学生や研究者に愛読されている。また『近世数学史談』などの数学の入門的啓蒙書も偉大な傑作となっている。
【経歴】
・1900年〜1901年 ゲッティンゲン大学ヒルベルトとクラインの教えを受ける。
1920年 類体論の論文「相対アーベル数体の一理論について」を発表。
・1932年 チューリッヒで開催された国際数学者会議に副議長として参加し、第1回フィールズ賞選考委員に選ばれる。
・1960年 脳卒中のため歿する。

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『この国のけじめ』 藤原正彦/著 文藝春秋 2006年発行
天才には幸運がつきもの (一部抜粋しています)
梅雨の一日、東海道線岐阜県の大垣で乗り換え、樽見鉄道で糸貫に向かった。十数名の客をのせた一両編成の列車は、間もなく市街地を抜け緑そよぐ田園地帯に入った。
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二十余分で糸貫に着いた。ここは世界的な数学者高木貞治の生地である。明治8年にこの地で生まれた博士は、大正中期に類体論とよばれる壮麗な理論を打ち建て、世界を驚倒させた。江戸時代に和算の大輪を咲かせたものの、維新以来、西洋数学の輸入に忙しかった後進日本に、突然巨星があらわれたのである。独創には自信が要る。博士の途方もない偉業を見て、日本人でもやれる、と勇気づけられた俊秀が数学分野に次々とあらわれ、その後30年ほどのうちに日本は数学における一大強国にまでなった。和算で示された日本人の類稀数学的才能が、再び花を開いたのである。そしてその伝統は現在に続いている。高木貞治はまさに日本数学の父である。
激しい雨のなか、糸貫駅から半時間ほど歩くと、富有柿の畑に三方を囲まれて高木家があった。生家は立て直されていたが、戦災で家を焼かれた博士が1年ほど疎開されていたときの住居はそのままだった。
天賦の才能は人口に比例して生まれるのかもしれないが、それが開花するにはいくつかの幸運が重ならなくてはならない。それがなくて埋もれた天才はいくらもいよう。とくに幼い頃の幸運は重要である。博士の幼年期、両親が暇さえあれば絵草子を見せたり昔話を聞かせたりしたこと。信心深い母親が幼い博士をしばしばお寺参りに連れていったこと、そのため5歳の時分には親鸞聖人の御伝鈔(おでんしょう)を聞き覚え大方暗誦してしまったこと。たまたま隣に住んでいた医者が、博士4歳のころより漢籍、書道などを教えたこと。これらはこのうえない幸運といえよう。幼いころに算数や数学を特別に学んだ形跡はない。むしろ読み聞かせとか暗誦、宗教心、といった数学とは無関係に見えることばかりである。この特徴は東と西とを問わず数学の天才の幼年期によく見られるから、独創性と関係があるのかもしれない。
博士は苦節の12年間がある。ドイツ留学から帰り博士論文を仕上げた28歳から、40歳に至るまで論文を1つも書いていない。留学時代「日本より50年進んでいる」とドイツ数学に圧倒された博士に、独創への自信はまだなかったのではないか。ところが40歳を目前に勃発した第一次大戦により、ドイツの本や論文が入らなくなった。「学ぶ」から「創る」へと切り換えざるをえなくなった博士は、5年間の激しい集中により大戦後間もなく、ドイツ数学を呑み込んでしまうような類体論を完成させた。20世紀数学の巨匠ヒルベルトが予想した理論をはるかに超えるものだった。生まれたものが余りにも画期的だったので、本当に正しいのかどうか自信がなく、高木は「どこか間違えているはず」と証明完成のあと1ヵ月も間違いを探し続けたという。ヨーロッパ最大の悲劇であった第一次大戦は、高木貞治の、そして日本数学の幸運だった。

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『考える人 日本の科学者100人100冊』 新潮社 2009年発行
高木貞治 『近世数学史談』 岩波文庫 学問をしようというなら、自分で何かやるより仕方が無い 【執筆者】円城塔 (一部抜粋しています)
高木貞治は1875年に生まれた。これは数学の帝王カール・フリードリヒ・ガウスの歿後20年にあたる。日本数学の近代化を担うべく、弱冠23歳にしてドイツへの留学を命じられる。当初「数学の現状に後るること正に50年」という痛感を抱くが泰斗と面して不思議と気圧されることはなかったらしい。
帰国後、「クロネッカーの青春の夢」として知られる大問題を解決。類体論の分野を拓き、日本数学の近代化に大いに寄与した。
本書は、高木の手になるガウスからディリクレまでの回想よりなる。大戦期、ドイツから本が来なくなったのでもう日本では学問などできないという風潮へも淡々と対した。
「学問をしようというなら、自分で何かやるより仕方が無い」。むしろ戦争で生まれた孤立がなければ、自分などは何もしなかったかも知れないと言う。奇妙なまでに気負いの消えたこの本に、静かに思索を続ける高木の強靭さと熾烈さが見える。

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