じじぃの「人の死にざま_352_島崎・藤村」

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初恋 島崎 藤村 動画 YouTube
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椰子の実 動画 YouTube
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島崎藤村 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
島崎藤村は、日本の詩人、小説家。本名は島崎春樹(しまざきはるき)。信州木曾の馬籠 (現在の岐阜県中津川市)生れ。
文學界』に参加し、浪漫派詩人として『若菜集』などを出版。さらに小説に転じ、『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家となった。ほかの作品に、日本自然主義文学の到達点とされる『家』、姪との近親姦を告白した『新生』、父をモデルとした歴史小説『夜明け前』など。
文學界と浪漫派詩人】
卒業後、『女学雑誌』に訳文を寄稿するようになり、20歳の時に明治女学校高等科英語科教師となる。翌年、交流を結んでいた北村透谷、星野天知の雑誌『文學界』に参加し、同人として劇詩や随筆を発表した。一方で、教え子の佐藤輔子を愛し、教師として自責のためキリスト教を棄教し、辞職する。その後関西に遊び、吉村家に戻る。1894年(明治27年)、女学校に復職したが、透谷が自殺。さらに兄秀雄が水道鉄管に関連する不正疑惑のため収監され、翌年には輔子が病没。この年再び女学校を辞職し、この頃のことは後に『春』で描かれる。
1896年(明治29年)、東北学院教師となり、仙台に赴任。1年で辞したが、この間に詩作にふけり、第一詩集・『若菜集』を発表して文壇に登場した。『一葉舟』『夏草』『落梅集』の詩集で明治浪漫主義の開花の先端となり、土井晩翠と並び称された。これら4冊の詩集を出した後、詩作から離れていく。
彼の詩のいくつかは、歌としても親しまれている。『落梅集』におさめられている一節「椰子の実」は、柳田國男伊良湖の海岸(愛知県)に椰子の実が流れ着いているのを見たというエピソードを元に書いたもので、1936年(昭和11年)に国民歌謡の一つとして、山田耕筰門下の大中寅二が作曲し、現在に至るまで愛唱されている。また、同年に発表された国民歌謡「朝」(作曲:小田進吾)、1925年(大正14年)に弘田龍太郎によって作曲された歌曲「千曲川旅情の歌」も同じ詩集からのものである。
【小諸時代から小説へ】
1899年(明治32年)、小諸義塾の教師として長野県小諸町に赴任し、以後6年過ごす(小諸時代)。秦冬と結婚し、翌年には長女・みどりが生れた。この頃から現実問題に対する関心が高まったため、散文へと創作法を転回する。小諸を中心とした千曲川一帯をみごとに描写した写生文「千曲川のスケッチ」を書き、「情人と別るるがごとく」詩との決別を図った。1905年(明治38年)、小諸義塾を辞し上京、翌年「緑陰叢書」第1編として『破戒』を自費出版。すぐに売り切れ、文壇からは本格的な自然主義小説として絶賛された。ただ、この頃栄養失調により3人の娘が相次いで没し、後に『家』で描かれることになる。

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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
8月22日−島崎藤村 (作家)
藤村が残した『夜明け前』こそは近代文学に夜明けをもたらしたとまで絶賛された小説だったが、彼の一生は島崎家に流れる血糖との格闘であったような気もする。
父正樹は生来、学問好きのインテリだったが後に精神を病み、死んでゆく。父ばかりでなく藤村の系図を探っていくとノイローゼの人が結構いたのだ。彼はこのことにずっと恐怖心を抱いていたようなところがあった。
天罰なのだろうか。藤村は結婚したものの妻と3人の娘を次々と失ってゆく。そして、彼は失意の中で姪と関係を持ち、妊娠させてしまう。
だから人間・島崎藤村を好ましく思わぬ人も少なくない。けれども人と作品を一体化して見るのは近視的なモノの見方である。
詩集『若菜集』『落梅集』、更に小説『破戒』はまごうことなき日本の文学史に名を刻んだ名作であることには変わりはない。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
島崎藤村 (1872-1943) 71歳で死亡。 (一部抜粋しています)
藤村は、昭和18年中央公論」新年号から『東方の門』を連載しはじめた。
前年に引っ越したばかりの大磯の別荘で、8月21日、その第3回分50枚を書きあげ、静子夫人に読ませて聞いていたが、その直後脳溢血を起し、22日午前零時35分死亡した。意識不明になる前の最後の言葉は「涼しい風が吹いて来る」というつぶやきであった。
彼はかねてから「自分の死んだところに埋めてくれ」といっていたので、遺骸は近くの地福寺の梅の木の下に埋葬された。

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備考.静子夫人は二人目の妻。

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『椰子の実』 島崎藤村
 名も知らぬ 遠き島より
 流れ寄る 椰子の実一つ
 故郷(ふるさと)の岸を 離れて
 汝(なれ)はそも 波に幾月(いくつき)
 旧(もと)の木は 生(お)いや茂れる
 枝はなお 影をやなせる
 われもまた 渚(なぎさ)を枕
 孤身(ひとりみ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ
 実をとりて 胸にあつれば
 新(あらた)なり 流離(りゅうり)の憂(うれい)
 海の日の 沈むを見れば
 激(たぎ)り落つ 異郷(いきょう)の涙
 思いやる 八重(やえ)の汐々(しおじお)
 いずれの日にか 国に帰らん

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島崎藤村 Google 検索
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