じじぃの「人の死にざま_349_J・ワット」

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Industrialisierung - Die Dampfmaschine James Watt 動画 YouTube
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Industrialisierung - Wandel zur Industriegesellschaft 動画 YouTube
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ジェームズ・ワット フリー百科事典『ウィキペディア』 (一部抜粋しています)
ジェームズ・ワット(1736年1月19日-1819年8月25日)は、スコットランドの発明家、エンジニアであり、トーマス・ニューコメンの蒸気機関へ施した改良を通じてイギリスのみならず世界中で産業革命の推進に貢献した。
グラスゴー大学で機械工作の仕事に従事していた頃、ワットは蒸気機関技術に興味を覚えた。そこで、当時の機関設計ではシリンダーの冷却と再加熱の過程でエネルギーを無駄にしてしまう点に気づいた。彼は機関設計を強化し、圧縮機能を分離することでエネルギーロスを低減し、基本的な出力の向上を図ることで蒸気機関の効率や費用対効果を高めた。
ワットはこの新しい蒸気機関の商品化を試みたが、1775年にマシュー・ボールトンという協力者を得るまでは資金面で大変苦労した。新会社ボールトン・ワット社は最終的に大成功を収め、ワットは資産家になった。引退後もワットは発明を続けたが、蒸気機関ほど影響を及ぼすようなものは完成できなかった。彼は1819年、83歳で亡くなった。彼の栄誉を称え、仕事率を示す国際単位系(SI)には「ワット」という名称がつけられた。
【初期の実験】
工房を開いた4年後、ワットは友人ジョン・ロビソン教授を通じて蒸気機関を知った。それまで蒸気機関の稼動法など知らなかったワットは興味を持ち、設計を試み実験を行った。それは満足に動かなかったが彼は実験を続け、考察に取り組んだ。そして、熱力学の基礎をワットに教えたジョゼフ・ブラックが数年前に至った結論と同じく、動力機関を理解するには潜熱が重要だという事に独自にたどり着いた。1763年、大学がロンドンに所有していたニューコメン蒸気機関グラスゴーに取り寄せた際、アンダーソン教授からワットは修理を任された。
実験を重ね、ワットは熱の80%が蒸気を水冷して凝縮させることを兼ねたシリンダーの温度上昇に費やされていることを突き止めた。この部分に問題ありとみなした彼は、蒸気の凝縮工程をピストン部分とは別に設けたチャンバー(分離凝縮器、復水器)で行う手法を考案し、1765年にシリンダーを注入蒸気と同じ温度に保つよう改良を施した。また、熱出力におけるピストンとシリンダーのバランスの悪さにも着目し、適切な寸法比を導き出した。
【晩年】
特許の有効期限が切れた1800年、ワットは引退した。マシュー・ボールトンとの契約関係も終了したがこの協力関係は彼らの息子たちに引き継がれ、長年工場に勤める技術者ウィリアム・マードックの協力を得て会社は盛栄を維持した。
ただし、ワットは完全に発明から手を引いた訳ではなく、望遠鏡を使った新しい距離計測法、石油ランプ、蒸気式水切り機、彫刻複写機などを作った。バーミンガムのウエストミッドランド、スタッフォードシャーのハンズワースにあった彼の家「ヒースフィールド」で、ワットは屋根裏部屋を工房にしてこのような発明に取り組んだ。
夫婦でフランスやドイツ旅行も楽しんだワットは、1819年8月25日、83歳の時に自宅で亡くなった。

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『つい他人(ひと)に自慢したくなる無敵の雑学』 なるほど倶楽部/編集 角川文庫 2003年発行
エッ! 蒸気機関の発明者はワットではない?
蒸気機関を発明したのはイギリス人のジェームズ・ワット。だれもが学校で習った常識です。大英科学博物館にもワットの発明した蒸気機関が展示されていますから、それは揺るぎない事実・・・・のはずなのですが、一説によれば、ワットは蒸気機関を発明したのではなく、改良しただけとか。
ワットが蒸気機関を発明したのは1782年といわれていますが、それよりも70年前に、イギリスのダートマスに住むトーマス・ニューコメンという人物が「蒸気と冷水によってポンプを動かす」仕組みを考えだし、実際にコニーグレという炭鉱で水を汲み出すのに30年以上も使われていました。
しかし、ニューコメンが開発した「蒸気機関」はパワーが弱く、とてもその他の用途には使えませんでした。そんなニューコメンの「蒸気機関」を修理していたワットは、もっとパワーを出す方法がないかと考え、改良に改良を重ねた結果、登場したのがワットの蒸気機関というわけ。
用途が限られていたものを改良したのですから、完全なパクリではありませんが、ワットに手柄をすべて横取りされたニューコメンさんには同情を禁じ得ません。

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『人類の歴史200万年』 READERS DIGEST 1980年発行
蒸気がもららした工業時代 (一部抜粋しています)
ワットの蒸気機関:1765年
ニューコメンのエンジンは産業革命の最初の胎動である。1760年には産業革命は完全に進行し始め、新発明は世紀のはじめに比べて10倍もの速さで生まれていた。発明家は中流階級の出身者であり、わずかな資本しか持たず、ただ十分な教育と限りない野心を持った人々であった。
このような男の一人に、ニューコメンの大気エンジンを蒸気機関に作り変えたイギリスの機械製作業者ジェームズ・ワットがいた。
1765年ワットは内部の水蒸気を凝縮させるためにシリンダーを冷却することは不必要であることに気付いた。ワットの蒸気シリンダーは終始熱い状態に保たれ、蒸気は別の冷たい凝縮器に吸い込まれて冷却された。ワットはまた彼の機関を複動式にし、水蒸気がピストンの両側に交互に入って、ピシトンを上にも下にも両方向に動かすようにした。ワットの蒸気機関の開発は最初、技術的、資金的な制約を受けており、発明をあきらめることさえ考えていた。しかしロンドンでの、技師マシュー・ボウルトンとの出会いが運を開いた。ボウルトンとワットは共同で500台近い蒸気機関を作り、これが産業革命期を通じてポンプや、機械類や、溶鉱炉を動かすのに用いられた。
繊維工業の誕生
蒸気動力のはじまりは、織物産業の誕生と時期が一致した。綿を糸に変える機械類はイギリスのハーグリーブズによって発明され、アークライトによって改良された。紡績機の糸を紡ぐ速さは著しく増したが、多数の労働者が生計を奪うものとしてこれに反対した。
18世紀の終わりには、紡績機や織機はジェームズ・ワットの蒸気機関と結び付いて成功をおさめた。その後、蒸気力の利用は増加をつづけ、蒸気の経済性が増すにつれて、コストは大幅に低下した。1812年には紡績系のコストは30年前の10分の1にすぎず、1830年代にはランカーシャーの綿織物はイギリスの全輸出の半分を占めるに至った。

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