じじぃの「人の死にざま_345_寺田・寅」

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施設案内/寺田寅彦記念館
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『考える人 日本の科学者100人100冊』 新潮社 2009年発行
寺田寅彦 『寺田寅彦ちくま文庫 積み重ねる事実の記録に清潔な抒情がにじむ 【執筆者】梨木香歩 (一部抜粋しています)
寺田寅彦が始めて夏目漱石の家を訪れたのは、熊本第五高等学校在学中の第2年、その学期末試験が終わったときのことである。落第点をとった同郷の学生の「成績底上げ」嘆願のためだった。用件を済ませ、帰り際、ふと「俳句とはいったいどんなものですか」と、この英語担当教師に訊く。漱石俳諧に通じているということはつとに有名であったらしい。そのとき返された答えの1つが、「扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放談する連想の世界を暗示する」というものだった。私はこの言葉が寺田寅彦の、(特に初期の)随筆創作の際の核になったように思えてならない。
身近の情景から忘れ得ぬ追憶に入り込んでいく「竜舌蘭」、その反対に、追億から身近の情景に着地する「団栗」等の随筆も美しいが、彼の文章についてよく言われるのは科学と文学の融合というようなことである。電車の混雑の規則性に言及する「電車の混雑について」等、日常的に経験するものへの考察。避暑地の信州のホテルのベランダから、2人の子どもが同時に見たという「人魂」の出現した角度からその正体を詰めてゆく「人魂の1つの場合」等、自然現象の謎に言及したもの。ここで「1つの場合」、と断っているように、彼は言い伝えや迷信を科学の光にさらしてすべて解明できたと悦に入るタイプの人間では、決してない。科学的解釈は可能性として挙げているだけであって、彼自身は「人魂」や「化け物」というものを「ひどく尊敬している」のである。
「科学の目的は実に化物を捜し出す事なのである」(「化物の進化」より)や「顕微鏡で花の構造を子細に点検すれば、花の美しさが消滅するという考えは途方もない偏見である。花の美しさはかえってそのために深められるばかりである」(「科学と文学」より)などという文章にも、化学と浪漫を同一の地平のものとして生きた彼の姿勢が表れている。
そして折々挟まれる彼独特の視点には、暑い夏の日、木陰で涼風を感じる思いすらするときがある。たとえばある文章は、カラジウムというサトイモ科の観葉植物やベコニアの一部にある、本来の植物から見たら明らかに異様で病的な姿を人の心が美しいと感じる不思議さからスタートし、アフリカには故意に体の一部を変形させる部族があること、さすがにそこまでは自分も美しいとは思えない云々と展開した後、次の文章に帰結する。
「ほんとうに非凡なえらい神様のような人間の目から見たら、事によるとわれわれのあらゆる罪悪がみんなベコニアやカラジウムの斑点のごとく美しく見えるかもしれないという気がする」(「藤棚の陰」より)
田舎に帰れば必ず親戚への挨拶回りを欠かさなかった。幼いころから跡取りとして大事に育てられ、大抵の願いはかなえられた。長じても遠く離れた故郷に根を持ち続け、東京に根を伸ばした一族の家長として生きた。その自由と不自由が、味わい深い陰影となって、宇宙を見、身近を論じて文章に結晶した。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
寺田寅彦(てらだとらひこ) (1878-1935) 57歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和9年秋のころから寅彦は身体不調であった。「今日はからだと足重く歩行大義なり」(昭和10年2月10日の日記)
「夜来不快、朝下痢」(同年3月9日の日記)
彼の身体の内部でガンはすでに進行していたのである。
しかも最愛の末娘雪子との雑誌『セルパン』の記者青木滋(のちのペンネーム青地晨)の結婚問題で、彼自身「こんな思いをするくらいなら死んだ方がました」と小宮豊隆にもらしたほど悩むことが多かった。
しかし、8月にはいると以外に元気になり、雪子ら2人の娘を連れて軽井沢にゆき、自転車の曲乗りをしてふざけて見せたり、小浅間と離山に登ったりしたほどであった。ただし「それでも中腹までひといきに登ったら呼吸が苦しくなり、妙に下腹が引きつって、おまけに前頭部が時々ずきずき痛むような気がした」(寅彦『小浅間』)
9月に帰京すると彼は病臥し、みるみる悪化した。彼は神経質だと思い込んでいた。しかし病気は脊椎(せきつい)の骨腫瘍であった。つきそいの看護婦はいう。「こんなに痛ければ死ぬ方がましだ、とたびたびいいましたが、本気では決してそんなお心持になったわけではまいと存じます」(小林勇『回想の寺田寅彦』)
11月19日の晴れた日、寅彦は、文金高島田に花嫁衣装の雪子の姿を、本郷曙町の2階10帖の、2度と起きることのなかった病床の上で見た。
11月21日、幸田露伴は、岩波の小林勇とともに寅彦を見舞った。寅彦の妻紳子が、「ちょっとお待ち下さい」といって2階に上ってゆく足音があまり無神経で乱暴なので、露伴は眉をひそめていた。
病床で、やつれた寅彦が、「身体じゅうに痛みが移ってゆくのを、じっと見つめています」というと、露伴は、「上の方から谷を見るように、気持ちを静かに下げてゆきなさい」と、いった。寅彦は露伴の見舞いに驚き、かつ感謝していた。
帰りの車中で、露伴はつぶやいた。「寺田君よりおれの方がまだ幸せかもしれない」。それは悪歳で有名な夫人を持つ露伴が、同じく悪歳で有名な紳子夫人のようすを見ての感慨であった。
−−紳子夫人は、2人の妻に死別した寅彦の3番目の妻で、寅彦の晩年17年5ヵ月を共にしたが、寅彦は、母のちがう子供たちがふえてはあとあと悶着のもとになるといって、ついに紳子とはいちども夫婦生活をしたことがなかったという。小林はのちにそのことを小宮豊隆から聞かされて驚いたが、この時点においてはまだ紳子の悲劇を知らなかった。
12月27日、見舞った友人松根東洋城に、寅彦はとぎれとぎれに何かいった。その中に、「・・・・先生のところにいった・・・・そしたら先生がこっちに来い・・・・」という言葉が聞こえた。漱石先生が迎えにきたのではないか、と東洋城はいう。
12月31日、午後零時28分、寅彦は息をひきとった。

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寺田寅彦の言葉
「天災は忘れた頃に来る」
「頭のいい人は批評家に適するが、行為の人にはなりにくい。すべての行為には危険が伴うからである」
「好きなもの いちご コーヒー 花 美人 ふところ手して宇宙見物」

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