じじぃの「人の死にざま_342_ラファエロ」

ラファエロ・サンティ - あのひと検索 SPYSEE
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Raffaello Sanzio Deposizione 動画 YouTube
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Rafael Sanzio 動画 YouTube
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ベルヴェデーレの聖母
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ラファエロ・サンティ フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ラファエロ・サンティは、盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家、建築家。ミケランジェロが偉大な改革者であるのに対し、ラファエロはそれまでの芸術手法を統合、洗練して、女性的で優雅な様式を確立した、総合芸術の天才であると言える。調和された世界を最良とするルネサンス芸術を完成させた存在として、その資質は死後も賞賛され、模倣された。ラファエロ・サンツィオ・ダ・ウルビーノ(Raffaello Sanzio da Urbino)の表記もある。英語名でラファエル(Raphael)と書かれることもある。
【生涯】
1483年、宮廷画家ジョヴァンニ・サンティの子としてウルビーノに生まれ、父親から絵画の教育を受けた。
1504年、ラファエロフィレンツェに拠点を移し、ペルージャウルビーノに滞在して作品を残した。フィレンツェ滞在中に、『マッダレーナ・ドーニの肖像』、1507年には『美しき女教師』、1508年にはサント・スピリト教会の『天蓋の聖母』を作成した。この頃の作風は、レオナルド・ダ・ヴィンチの様式を吸収し、フラ・バルトロメオの影響を受けて力強く堂々としたものに変化していた。
1508年にローマへ出て工房を構えたラファエロは、教皇ユリウス2世に雇われ、1509年からバチカン宮殿の署名の間(特に有名なものとしてフラスコ画『アテナイの学堂』が挙げられる)およびヘリオドロスの間を手がけた。彼は、ローマで自らの様式を開花させ、1512年頃と推測される『サン・シストの聖母』をはじめとする傑作を数多く作成した。また、同時期にサン・エリジオ・デッリ・オレフェチ教会の設計を行い、建築家としての経歴もスタートさせている。1512年にはサンタ・マリア・デル・ポポロ教会のキージ家礼拝堂、1515年にはパラッツォ・ブレッシャーノ・コスタ、1517年にはパラッツォ・パンドルフィニの設計に携わった。
1514年、サン・ピエトロ大聖堂の主任建築家に任命され、1517年には、ローマ古物監督責任者に推挙されるなど、芸術家としては異例の富と権力を手中にしたが、1520年、誕生日でもある日、37歳の若さで亡くなった。ヴァザーリは性愛の楽しみが過ぎたためだ、と書き残している。永らく熱病による死とされていたが近年の研究では性感染症によるとの説も出ている。墓は、パンテオンにある。

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『人類の歴史200万年』 READERS DIGEST 1980年発行 (一部抜粋しています)
印刷された文字の力
ルネサンスのもう一つの特徴は、一連の発明である。その内でもっとも重要なものの一つは、印刷術であった。改版可能な活字を、ヨーロッパではじめて使用したのは、マインツの発明家のヨハン・グーテンベルグ(1400?-1468)と、彼の協力者で金細工師兼金融業者であったヨハン・フストであるとされている。彼等の最初の重要な仕事は、1456年の『42行聖書』であった。彼らは、1150年ごろ、スペインのムーア人がヨーロッパに伝えた工法によるぼろ布から作った紙を用いた。
1500年までに、ヨーロッパの諸都市の印刷機は183台となった。印刷術によって、政治や宗教に関する新しい理念が、ヨーロッパ中の考える人々の手に入るようになった。ラテン語と『聖書』は、教会や大学、修道院の独占物ではなくなった。印刷された文字を利用して、オランダのエラスムスのような思想家が、以前よりもはるかに広い層に呼びかけることができるようになった。カトリック教会内部の悪弊を反撃したエラスムスの『愚神礼賛』は、全ヨーロッパの思想に影響を与えた最初の書であった。印刷業者が、社会の枢要な人物となった。そしてしばしば、彼ら自身も学識が豊かであった。
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この新しい学問がもっとも鋭い衝撃を与えたのは、イタリアにおいてであった。それは単にフィレンツェ、マントゥア、ミラノのような都市だけではなく、ローマにおいてもそうであった。1447年から1455年まで教皇職にあったニコラウス5世は、書籍収集家であり、バチカン図書館を建てている。ユリウス2世はバチカン宮殿を建て、それを居館とした。16世紀には、ローマには、53の新しい教会が建ち、ミケランジェロラファエロ、ベルニーニの故郷であったこの都市は、ルネサンスの黄金都市となった。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
ラファエロ (1483-1520) 37歳で死亡。
ルネサンス期にレオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロとならび称されたラファエロは。それほどの画技のほかに、優美で善良な性質と風姿の持主であった。
それで、当然女性にもてすぎて、この方の道楽だけは度を越して、ついに高熱を発して寝込むに至った。強壮剤が必要なところへ、彼の不摂制を知らない医者が瀉血(しゃけつ)療法をほどこしたので、彼はいよいよ衰弱して、1520年4月6日、ちょうど自分の誕生の日に死んだ。

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ラファエロ・サンティ Google 検索
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