じじぃの「人の死にざま_331_柳田・國男」

柳田国男 - あのひと検索 SPYSEE
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遠野と「遠野物語 動画 YouTube
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NHK特集 遠野物語をゆく 柳田國男の風景 第1部 動画 YouTube
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日本人は何を考えてきたのか 「第7回 魂のゆくえを見つめて 〜柳田国男 東北をゆく〜」 (追加) 2012年7月22日 NHK Eテレ
【出演】重松清(作家)、赤坂憲雄学習院大学教授)、谷川健一民俗学者)、郄橋美鈴アナウンサー
民俗学創始者柳田国男は、1920(大正9)年東北を歩いている。明治の三陸津波から25年後、復興を見つめ、「雪国の春」を著した。そこには絵馬や板絵で被災前の記憶を伝えようとする人々、「食うが大事」と高台ではなく浜辺に住み始めた人々等、被災後の現実が活写されている。また、柳田の代表作「遠野物語」第99話には、妻を津波でなくした男が見た幽霊の話が採録されている。
死後、魂はどこへゆくのか。柳田は、その後、沖縄をはじめ全国各地を歩きながら、思索を深めていく。多くの戦死者を出した太平洋戦争後、柳田国男は、折口信夫と共に魂のゆくえを民俗学の視点で究めていった。
東日本大震災後、鎮魂と記憶の伝承という大きな課題に向き合っている今、民俗学から何をくみ取れるのか。番組では作家の重松清さんが、「雪国の春」「遠野物語」を手に東北の現場を訪ね、考えていく。
http://www.nhk.or.jp/nihonjin/schedule/0722.html
柳田國男 ウィキペディアWikipedia)より
柳田國男(1875年(明治8年)7月31日-1962年(昭和37年)8月8日)は日本の民俗学者兵庫県福崎町生まれで、晩年に名誉町民第1号となった。正三位勲一等。
著書『遠野物語』などで知られる。全国各地を歩き、とくに山の生活に着目して「願わくは平地人を戦慄せしめよ」と述べた。日本における民俗学の開拓者である。
民俗学の夜明け】
東京帝国大学では農政学を学び、農商務省のエリート官僚となった後、講演旅行などで地方の実情に触れるうちに次第に民俗的なものへの関心を深めてゆく。また、当時欧米で流行していたスピリチュアリズムの影響を受け、日本でも起っていた「怪談ブーム」のさなかで当時新進作家だった佐々木喜善と知り合い、岩手県遠野の佐々木を訪問して『遠野物語』を執筆。他に宮崎県椎葉などへの旅の後、郷土会をはじめ、雑誌「郷土研究」を創刊。民俗学が独自の領域と主張を持つための下準備を着々と進めていった。
【日本民俗学の確立】
『蝸牛考』での「方言周圏論」、『郷土生活研究法』における「重出立証法」などで日本民俗学の理論や方法論が提示されるなど、昭和初期は日本民俗学の確立の時代であった。一方で山村調査、海村調査をはじめとする全国各地の調査が進み民俗採集の重要性と方法が示された。以降、柳田の活動は日本人は何であるかを見極め将来へ伝えるという大きな問題意識を根底に「内省の学」として位置づけられてきた。
遠野物語 ウィキペディアWikipedia)より
遠野物語』(とおのものがたり)は、柳田國男が1910年(明治43年)に発表した説話集。日本民俗学の黎明を告げた名著である。現在は、岩波文庫角川ソフィア文庫集英社文庫等にある。
【内容】
岩手県遠野町(現・遠野市)出身の小説家・民話蒐集家であった佐々木喜善によって語られた遠野盆地〜遠野街道に纏わる民話を、柳田が筆記・編纂し自費出版した初期の代表作。その内容は天狗、河童、座敷童子など妖怪に纏わるものから山人、マヨヒガ、神隠し、死者などに関する怪談、さらには祀られる神、そして行事など多岐に渡る。『遠野物語』本編は119話で、続いて発表された『遠野物語拾遺』には、299話が収録されている。もう一人大きな影響を与えたとされるのが、やはり遠野出身で、佐々木喜善の先輩格である伊能嘉矩であった。

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朝日新聞社 100人の20世紀 下 2000年発行
柳田国男 (1875-1962) 87歳で死亡 【執筆者】渡辺斉 (一部抜粋しています)
旅から帰って間もなく、岩手県出身の青年と知り合う。青年は佐々木喜善といい、東北なまりのふるさと遠野地方の昔話を語った。
家に住む子供の神、「ザシキワラシ」。棒の先に顔がある「オクナイサマ」。かっぱ、てんぐ、山男、山女、雪女・・・・。
柳田は、そうした存在が現実に人々に信じられていることにひかれた。毎月1回、半年にわたって青年の話を聞く。ときには佐々木の下宿先まで出かけていった。
遠野を実際に自分の目で見たくなる。1909年夏、花巻駅から人力車に乗り、8時間かけて遠野に入った。5日間滞在し、里を歩き、馬で山道を回った。今でいうフィールドワークのはしりだった。
「遠野の城下は即(すなわ)ち煙花の街なり。・・・・早池峯(はやちね)の山は淡く霞(かす)み山の形は菅笠(すげがさ)の如く又片仮名のへの字に似たり。・・・・盂蘭盆(うらぼん)に新しき仏ある家は紅白の旗を高く揚げて魂を招く風あり」
翌年『遠野物語』を出版した。350部。おそるおそる50銭の値段をつけた。当時の労働者の1日の賃金に相当する高額だったが、本はたちまち売り切れ、30円あまりの益が出た。
遠野と椎葉。日本の北と南に期せずして原初的な世界が残っていることを知った。こうした伝承を丹念に拾っていけば、庶民の歴史、知られざる日本の歴史が書けると柳田は直観する。民俗学の誕生だった。
日露戦争に勝ち、急速に工業化、都市化が進んだ時代だった。昔からの言い伝えや言葉、生活習慣、行事、祭りなどの文化がどんどん消えていこうとしていた。国家神道が叫ばれ、信仰も変質してきていた。
神奈川大の宮田登教授はいう。
「近代化によって、伝統文化のよさまで失いつつあるという危機感が柳田にあったのでしょう」
柳田は133冊もの著作を残した。彼が収集し、分類した伝承文化の集積がなかったら、後世の研究者の苦労は大変なものになったろう。
茨城県利根町の徳満寺に、1枚の絵馬がかかっている。飢饉に襲われた農家の主婦が、生まれたばかり赤子を殺している光景だ。
柳田は少年期、寺に近い兄の家に住んでおり、この絵馬を見た。「寒いような心になった」と後に書いている。「何ゆえに農民は貧なりや」。民俗学に引き寄せられていく契機の一つだった。
1875年、今の兵庫県福崎町の松岡家に生まれる。父は貧しい元教師だった。医師になった兄を頼って利根町に移り、東京の第一高等学校に入る。
このころの彼はハイネに傾倒する文学青年だった。約50編の詩を書いたが、多きは恋の詩である。学生時代の1897年、友人の田山花袋国木田独歩らと出した詩集『抒情(じょじょう)詩』に、こんな詩を寄せている。
 はゝなき君をあはれとて
 泣きつる我もつひに亦(また)
 母なき人となりにけり
 あはれと君はおぼすべし
前年に母を失い、同じ境遇の女性に想いを寄せてうたったものだ。モデルは、兄の家の近くに住む伊勢いね子さん、当時15歳だった。
時代は明治、男女の交際は自由ではなかった。柳田の悩みは深かった。東京帝大に進んでいた1898年夏、ひとり愛知県伊良湖岬を訪ねる。
旅館はなく、網元の家に泊った。1ヵ月の滞在中、恋路ヶ浜に打ち上げられたヤシの実を3度も目にした。
「はるかな波路を超えて」と感動する。
東京に戻って友人の島崎藤村にその話をすると、藤村は「だれにもいわずにくれたまえ」という。のちに国民的歌謡となる「椰子(やし)の実」の詩が、この時できた。
 名も知らぬ遠き島より
 流れ寄る椰子の実ひとつ・・・・
いね子さんは結核になり、18歳になる前に世を去る。柳田は青春とともに詩への思いを断ち切った。
彼が選んだ道は、詩才を知る友人たちを驚かせるものだった。大学を卒業して農政官僚に転身する。25歳で裁判官の柳田家の養子となった。多感な青年期を振り切っての旅立ちだった。
しかし、鋭い詩的感性まで捨てたわけではなかった。
当時の高級官僚は高給取りだったが、「給料はすべて自分で使っていました」と、長男でお茶の水女子大学名誉教授の柳田為正さんは語る。ほとんどが本代に消えた。
内閣記録家長のとき、膨大な本で埋まる書庫を整理していて思った。
「書物で学ぼうとしたら一生あっても足りない。実地に則して調べていく方が効果はありはしないか」
歩くことが学問だ。それが柳田の確信になっていく。
沖縄・宮古島
潮が引くと、透き通る海に「八重干瀬(やえびし)」のサンゴ礁が浮かび上がる。漁船から女性たちが干瀬に上がり、魚や貝を取っている。ここでは宝貝が多量に産する。
1921年朝日新聞社に転じていた彼は、沖縄などの南の島々を1ヵ月かけて回り、この宝貝に引きつけられた。
宝貝は昔、中国で貨幣として使われ、「至宝」とされていた。それが島々では小石のように散乱している。漁師は宝貝を漁網のおもりにしていた。
61年になって柳田は「海上の道」を書いた、彼はこう主張する。
私たち日本人の祖先は宝貝を求め、中国から稲をたずさえて沖縄に渡ってきた。沖縄から黒潮に乗ってさらに北上し、本土に達した・・・・。
柳田学の総決算となったこの最後の著作は、63年前に伊良湖畔で見たヤシの実からの発想だった。断ち切ったはずの青春時代のロマンが、伏流水のように噴き出した。
柳田は機会のあるかぎり全国を講演してまわる。その都度、地方の郷土史家に資料提供を呼びかけた。
日本民族学会代表理事の真野俊和・上越教育大教授は語る。
「柳田は膨大な資料を集積したうえ、地方の学者を組織しました。在野のアマチュア研究者を仲間に受け入れ、学問を開かれたものにした意義は大きい」
同じ民俗学仲間の南方熊楠が、博覧強記ながら個人の枠にとどまったきらいがあることと対照的だ。
成城大学民俗学研究所に、柳田が寄贈した十数万枚の資料カードが保存されている。手のひら大のカードには、各地の方言から昔話に至るまで、細かい字でびっしり書き込まれていた。
遠野物語』を英訳した麗澤大学のロナルド・モース教授はいう。
「日本の人文科学は、6割以上が柳田の影響を受けているといっていいでしょう。彼の業績の中には宝物がいっぱいある」
35年、自宅を開放して、「民間伝承の会」をつくった。これが後に日本民族学会となる。会員は2400人。過去に「会長」といわれたのは柳田国男だけである。

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