じじぃの「人の死にざま_325_渥美・清」

渥美清 - あのひと検索 SPYSEE
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男はつらいよ』40周年記念プロモーション映像 動画 YouTube
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男はつらいよ(アコギソロ) 動画 YouTube
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『遠くへ行きたい』渥美清 動画 YouTube
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徹子の部屋 「永六輔 現役続行の勇気をくれた盟友の激励」 2013年3月21日 テレビ朝日
現在パーキンソン病を患いながらも精力的にラジオ番組や講演活動を続ける永六輔さんを迎える。懸命にリハビリをこなして病気と闘う日々のエピソードを明かして黒柳を笑わせる。永さんと黒柳の出会いは今から60年ほど前に遡る。今日は2人に共通する盟友たちの秘話が次々と。渥美清さん、小沢昭一さん、井上ひさしさん等の素晴らしい人柄が浮き彫りに…。
☆本
永六輔のお話し供養」 小学館
「無名人のひとりごと」 (株)金曜日
http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/html/130321.html
渥美清 ウィキペディアWikipedia)』より 
渥美清(あつみきよし、1928年3月10日-1996年8月4日)は、日本の俳優。本名、田所 康雄(たどころ やすお)。
東京市下谷区車坂町(現・東京都台東区上野七丁目)出身。
【生涯】
1928年(昭和3年)3月10日に、上野の車坂で地方新聞の新聞記者をしていた父友次郎と、元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母タツとの間に次男として生まれる。兄に健一郎がいる。
1951年、東京都台東区浅草のストリップ劇場(百万弗劇場)の専属コメディアンとなる。
1953年には、フランス座へ移籍。この頃のフランス座は、長門勇東八郎関敬六など後に第一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。
1954年、肺結核で右肺を摘出しサナトリウムで約2年間の療養生活を送る。このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われている。また、復帰後すぐに今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に1年近く入院する。再復帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた。
1956年にテレビデビュー、1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー。
1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一関敬六とスリーポケッツを結成。しかし、数ヵ月後には脱退している。
1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』、『若い季節』に出演。コメディアン・渥美清の名を全国区にした。
1962年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務める。 同年、フジテレビ連続ドラマ『大番』でのギューちゃん役がうける。 同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケにおいて、海に飛び込むシーンでは右肺を摘出していたため海に飛び込めず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。 当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『切腹』(仲代達矢岩下志麻三国連太郎丹波哲郎)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。
1963年の野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で愛すべき無垢な男を演じ、俳優としての名声を確立する(続編では阪急や近鉄で活躍したロベルト・バルボンが連合国兵士役で出演した)。この作品がフジテレビの関係者の評判を得て「男はつらいよ」の構想が練られた。
1965年公開の、羽仁進監督の『ブワナ・トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。この撮影以降、アフリカの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる。この時期の主演作品としては、TBSのテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』(1966年)や映画『喜劇列車シリーズ』(喜劇急行列車、喜劇団体列車、喜劇初詣列車)(1967年〜1968年)なども有名である。
1968年、フジテレビにて、テレビドラマ『男はつらいよ』の放送開始。放送期間は1968年10月3日から1969年3月27日までの半年間。脚本は山田洋次森崎東が担当した。最終回では「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」と言うストーリーに抗議が殺到した。
1969年に「罪滅ぼしの意味も含めて」、松竹で映画を製作。これが予想に反し大ヒットとなり、以降シリーズ化となって製作の始まった山田洋次監督の映画『男はつらいよ』シリーズにおいて、主演の車寅次郎("フーテンの寅")役を27年間48作に渡って演じ続ける事になる。この映画のシリーズは、国民的映画として日本中の多くの人たちに親しまれた。映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げた。
病気については1991年に肝臓がんが見つかり、1994年には肺に転移しているのがわかった。47作からは主治医からも出演は不可能だと言われていたが何とか出演。48作に出演できたのは奇跡に近いとのことである。1996年7月に体調を崩して同月末に手術を受けたものの、がんの転移が広がり手遅れの状態だった。山田監督の弔辞によれば、病院でがんの手術が手遅れの状態だった後、病室で震えていたとの事である。
1996年(平成8年)8月4日、転移性肺がんのため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院にてこの世を去る。68歳没。「俺のやせ細った死に顔を他人に見せたくない。骨にしてから世間に知らせてほしい」という渥美の遺言により、家族だけで密葬を行い、遺体は東京都荒川区内の町屋斎場で荼毘に付された。訃報は3日後の1996年8月7日に松竹から公表された。
【実像】
「寅さん」の演技で見せる闊達さとは対照的に、実像は自身が公私混同を非常に嫌がり、他者との交わりを避ける孤独な人物だった。「男はつらいよ」のロケ先で撮影に協力した地元有志が開く宴席に一度も顔を出したことがない話は良く知られており、身辺にファンが近寄ることも嫌っていた。タクシーで送られる際も「この辺りで」と言い、自宅から離れた場所で降りるのを常としていた。映画関係者ともプライベートで交際することはほとんどなく「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次黒柳徹子、親友であった関敬六でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。これは渥美が生前、私生活を徹底的に秘匿し、「渥美清=“寅さん”」のイメージを壊さないためであった。実生活では質素な生活を送っていたようで、車は一台も所有しておらず、仕事での食事も店を選ばずに適当な蕎麦屋で済ましていたという。

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『風天 渥美清のうた』 森英介/著 大空出版 2008年発行 (一部抜粋しています)
「渥美さんは詩人で哲学者のようだった」
ところで、これまで渥美さんという人は、芸名渥美清、役名車寅次郎、本名田所康雄と3つの顔を持っていましたが、今回、風天という4つ目の顔がクローズアップされることになりました。4つの顔はどうつながっているのでしょうか?
「ウーン、"入れ子"というのかな、車寅次郎の中に渥美清が入っていて、その中に風天がいて、さらにその中に田所康雄がいて・・・・。そのいちばん中の田所康雄が抜け出して亡くなってしまった。でも、周りは残ってる。映画の観客や俳句を詠む人にとってはいつまでも生きている。それが渥美さんの生き方だったんじゃないかな」
入れ子」とは寸法の違う同型の箱などを組み合わせ、大きなものに小さなものが重なって収まるようにしたものである。
「田所康雄はそーっと消える。彼はそれが理想だということを奥さんの正子さんに言っていたそうですね。いつの間にかいなくなって町で誰かが噂している。渥美清っていたなあ、どうしたんだって言うと、あれ、一昨年、死んだよ、ああそうかという消え方が理想なんだけれども、なかなかそうはいかない。『僕も一応現役だからマスコミに死んだということを知らせる前に骨にしておきなさい』と奥さんに言い置いて亡くなり、奥さんもそのとおりにした。大騒ぎして死ぬのがイヤだったんでしょうね」
「渥美さんは晩年のインタビューはいつも寅次郎の格好をしていた。世間には車寅次郎のままでいたい、田所康雄はみんなが気がつかないうちに消えてしまいたいという思いがあったんじゃないのかな」
渥美さんは「芝居も暮らしも贅肉がない人」と言われました。俳句も言葉を削ぎ落して作ります。
「短い言葉で本質や情景をスパッと言い切る。渥美さんはそれが非常に得意だった。まさに俳人たる資格かもしれませんね。鮮やかな表現で人間や景色や天気を言い当てる。いいところだね、というのを実にうまく表現する。本質をえぐりとるような言い方、スパッと斬って切口を見せてくれるような言い方」
それでいて余韻がある。
「そういえば、こんなことを思い出しました。『男はつらいよ』シリーズが14、5回を超えたころかな、批評家にマンネリズムだ、と新聞にやたら悪口を書かれました。北海道のロケ先で林の中を渥美さんと2人きりで歩いているとき、ウン、バサバサと落ち葉を踏む音まで覚えていますが、僕は『とにかく僕たちは一生懸命作っている。それを批評家は何故わざわざ悪口を言うのか。気に入らない、評価しないと言うのなら無視すればいい。わざわざ書かないで欲しいと思うよ』とぼやいたんです。すると彼はこう言ったのです。
『作り手が自信を持ったときは、彼がどんなに謙虚であろうと努力しても、傍から見ればどこか傲慢に見えたりするもんなんです』
そんな言い方で慰めてくれた。僕は哲学者に話を聞いているような気がして、なるほどなあ、と感心したものです」

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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
8月4日−渥美清 (俳優・68歳)
寅さんこと、車寅次郎に扮して日本中から愛された役者である。
それにしても公私をあれだけきっちりと分けた芸人がかっていただろうか。
「役者なんてものはミステリアスだからいいんじゃないのかな」と渥美は生前、言っていた。
当たり役は両刃の剣と言われるが、渥美清はその見本のようだった。何を演じても寅さんのイメージがつきまとってしまうのだ。
全48作で膜を閉じた『男はつらいよ』シリーズ。それは監督山田洋次と主演渥美清との見事な名コンビによる傑作だった。そして、まぎれもなく日本映画の財産でもある。
夏に逝った渥美清。けれども私たちは毎夏、青い空に出てくる入道雲のように寅さんを想い出す。きっとこの空の下のどこかで、あの四角い顔に汗をかきながら旅していることを信じて――。

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渥美清の言葉(俳句)
「赤とんぼじっとしたまま明日どうする」
「花びらの出て又入るや鯉の口」
「乱歩読む窓のガラスに蝸牛」
「お遍路が一列に行く虹の中」
「餅を焼くしょうゆの匂いひと恋し」

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