じじぃの「人の死にざま_322_M・ペリー」

マシュー・カルブレイス・ペリー - あのひと検索 SPYSEE
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眼前に迫る巨大蒸気船、「龍馬伝 黒船と剣」 NHKオンデマンド
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マシュー・ペリー フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
マシュー・カルブレイス・ペリーは、アメリカ海軍の軍人。エリー湖の戦いにおけるアメリカ海軍の英雄であるオリバー・ハザード・ペリーの弟。日本の江戸時代に艦隊を率いて鎖国をしていた日本へ来航し、開国させたことで知られる。
【ペリー艦隊】
嘉永6年6月3日(1853年7月8日)に江戸湾浦賀沖に姿を現したペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊の4隻の軍艦。日本人はこれを「黒船」と呼んだ。
日本語では「ペリー艦隊」であるが、「フリート」 ( Fleet ) ではなく「スコードロン」 ( Squadron ) であるため、細かい訳では「小艦隊」が正しい。
来航した黒船のうち蒸気船は2隻のみであり、「太平の眠りをさます上喜撰(じょうきせん) たった四杯(しはい)で夜も眠れず」と狂歌に詠まれたような、四杯(4隻)すべてが蒸気船という表現は誤りである。

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文藝春秋 2010年8月号
的中した予言50 ペリー提督 【執筆者】蓑原俊洋(神戸大学教授) (一部抜粋しています)
「日本という素晴らしい国が、東洋において最も重要な国になると問題なく予言できる」
このペリー提督の言葉は、日米和親条約の締結からわずか3年後に述べられたものである。ここからは、日本に対するペリーの自信と期待が読み取れる。
それからおよそ150年、ペリーの予言は果たして当たったのであろうか。その答えは躊躇(ちゅうちょ)なく「是」である。開国を決断した日本は、国内の混乱を無事乗り切り、西洋から学ぶ道を選んだ。これは従来の鎖国政策に対する大転換であったが、それによって日本は他のアジア諸国のように列強の植民地となるのを回避できた。むろん、日本を開国させたのが帝国主義的な野心を抱くという欧州の国家ではなく、市場の確保という観点から商業主義を重視した米国であったことも幸いした。
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この戦争で大敗を喫した日本であったが、米国の援助の下、早々と国際社会へ復帰し、「第二の開国」を果たす。そして、その経済復興の勢いは「ジャパニース・ミラクル」と後に呼ばれるほど目を見張るものがあった。ヴォーゲル教授の『ジャパン・アズ・ナンバーワン』もこの時期に出版されたが、それは戦後期においてもペリーの予言が的中したことを意味する。
他方、こうした傲慢な自己利益の追求は「日本脅威論」や「日本封じ込め論」を誘発させ、日米経済摩擦へとエスカレートする。そして一旦は世界経済の約18%を担った日本であったが、その後バブルの崩壊と湾岸戦争という二重の敗北を体験して、中国の台頭と辺境化の危機に直面する現在の姿に到達する。
21世紀において、ペリーの予言はその意味を失うのであろうか。これに対する答えは「否」である。経済が低迷し、少子高齢化などの構造的な問題を抱えることによって、相対的に国力が低下している日本ではあるが、この国の歴史が示してくれているのは、苦難の局面を忍耐と努力をもって切り開くことのできる強靭な国家の姿である。それを可能としているのが日本の国民であり、150年前のペリーもそうした日本人と接することによって、初めてあの予言を述べたのであろう。時として外から日本を眺める方が日本の本質を的確に捉えることができる。今日、悲観的な機運が次世代の日本人を支配しているが、ここはペリーが見据えた日本の潜在力を信じ、より前向きに臨むのがよい。
最後に、黒船を率いて幕府に開国を強硬に迫ったペリーについて一言。こうした「砲艦外交」の背景には、当時のアメリカの国内要因があったことを見落としてはならない。現在もそうであるが、当時、米政府内では日本よりも清国の方が大事だと考える「中国派」が存在し、彼らは日本を重視するペリーのミッションを愚行と見なして、度重なる妨害を試みた。ペリーの旗艦となるはずのサスケハナ号が、横槍によって一時上海に回航させられたのも一例である。そこで、ペリーは「中国派」の政策判断の誤りをさらけ出すためにも、是が非でも日本を開国する必要があった。ペリーが力の誇示に訴えたのは、その必死さゆえである。彼はそれほどまでに日本に信念を置いており、日本にとっては最初のアメリカ人のよき理解者だったのである。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
ペリー (1794-1858) 64歳で死亡。 (一部抜粋しています)
ペリー提督は1858年3月4日、心臓リューマチで死んだ。黒船で日本をおどしてから4年目であった。
幕末にもっとも日本をおどしたのは、アメリカのペリーとイギリスのパークスだが、どちらも心臓リューマチで死んだのは一奇である。
ペリーが死んでから2年後の万延元年、日本の遣米使節一行がポーハタン号でアメリカを訪れたが、ニューヨークで一行はペリー未亡人のところへ挨拶にいった。
副使村垣淡路守の日記を現代文で書けば−−
「6月26日 曇(華氏)82度。
 午後2時からペリーの娘婿ベルモンドのところへゆく約束だったが、その前にペリーの後家を訪ねたらとのことで、そちらに立ち寄ってみると、美しい4階建ての家である。当主はペリーの息子だが、海事軍人なのでいま航海中で留守だという。後家は温和で上品な老婆である。ねんごろにもてなしてくれ、娘や孫など出てきて挨拶した。家には、日本に来たとき幕府から頂戴したものや買って来たものなどが飾ってある。ペリーは日本の鎖国を開いて条約を結んだ大功があるので重く賞されたが、3年前に死んだという。このたび日本使節が来たのもペリーの功によるものだと、このごろまたペリーの名がもてはやされるようになったそうだ。今度はからずもこの国に来て、もし提督が生きておいでになったらといったところ、老婆は涙ぐんで言葉も出ないようすであった」
まるで日本がペリーに何か恩恵を施してやったかのような書き方が可笑(おか)しい。
−−ペリーの来航は、要するにアメリカの中国貿易と捕鯨に基地として日本の港が欲したからであったが、100余年後、アングロサクソンは、日本人による捕鯨反対のリーダーとなった。彼等の必要性、不必要が、その時の世界の掟(おきて)となる。もっとも、ペリーはユダヤ人であった。

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マシュー・カルブレイス・ペリー - あのひと検索 SPYSEE
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