じじぃの「人の死にざま_532_T・ハリス」

タウンゼント・ハリス - あのひと検索 SPYSEE
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日米交流150周年記念
http://www.ny.us.emb-japan.go.jp/150th/html/nyepi2a.htm
タウンゼント・ハリス フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
タウンゼント・ハリスは、アメリカ合衆国の外交官である。初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使。民主党員、敬虔な聖公会信徒で生涯独身・童貞を貫いた。タウンゼンド・ハリスと表記されることもある。
日本の江戸時代後期に訪日し初代駐日公使となり、日米修好通商条約を締結したことで知られる。
【生涯】
ニューヨーク州ワシントン郡サンデーヒルに生まれる。
ハリスは1849年にはサンフランシスコで貨物船の権利を購入し、貿易業を開始する。清国、ニュージーランド、インド、マニラなど太平洋を中心に各地を航行して、以前から興味を抱いていた東洋に腰を落ち着ける。1853年には日本への第1次遠征を行っていたマシュー・ペリー率いるアメリ東インド艦隊が清国に滞在しており、上海にいたハリスはペリーに対して日本への同乗を望むが、軍人でないために許可を得られなかった。
1856年にヨーロッパからインド経由で4月にはシャムへ到着、バンコクにおいて通商条約の締結に尽力する。さらに香港経由で8月21日に日本へ到着し、伊豆の下田へ入港する。
1858年には同年に大老となった井伊直弼が京都の朝廷の勅許無しでの通商条約締結に踏み切り、日米修好通商条約が締結されたため、初代駐日公使となり、下田の領事館を閉鎖して江戸の元麻布善福寺に公使館を置く。
【人物】
・ヒュースケン殺傷事件など日本の攘夷派の外国人襲撃行動に対し、イギリス、フランス、プロイセン、オランダの4か国代表は江戸幕府に対し共同して厳重な抗議行動をとったが、ハリスはこれに反対し、抗議行動には加わらなかった。
・日本においては、自らも、日本国内と海外における金銀比価の違いを利用して小判を買い漁り、それを上海などで売却して利鞘を稼ぎ、それを慈善事業に充てた。

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『日本滞在記 上』 ハリス/著 坂田精一/翻訳 岩波書店 1963年発行
解説 (一部抜粋しています)
太古の日本の物語に、逞しい一人の男神が天の岩戸をおし開いて、この世の光をみちびいたとある。これは種属の関係、あるいは政治の面に偉大な変革のあったことを示したものだ。
近代日本の開国――それは大きな変革であった。これによって日本は極東の孤児たることをやめ、国際団体の一員として、はじめて世界史上にその位置を占めたのである。
誰が鎖国日本の扉を開く男神の役目をなしたか――現代の史家は、ペリーとハリスの2人を日本の記している。そして前者の名声は殊に大きいけれども、ペリーによる「日米和親修約」は、その名のように、単なる和親の修約であった。それは、通商互市の規定を何ら含むものではない。それ故に「世界市場の一環としての日本の解放」という近代的意義における開国ではなかったのである。――ペリーは閂(かんぬき)をはずした。誰かによって扉が開かれなければならない。
ペリーの条約に追従して、他の国々も日本と和親条約をむすんだ。しかし、それらの資本主義国家は。その本来の目的から、こうしたものに満足すべきいわれがなかった。自由貿易の波は、シナを洗って、日本の岸へおしよせていた。イギリスはシナの鎖国主義を「阿片戦争」によって粉砕した。
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東洋市場の開拓のために、如何なる些小事なりとも交戦の口実とする吝かでないイギリスのこうした武断外交に対し、アメリカ合衆国モンロー主義を基調とした平和外交の立場をとっていた。このことは日本にとって幸いであった。なぜなら、モンロー主義は、列国のアメリカ大陸への干渉を排するかわりに、自らは他の世界において国際的紛争をさけ、問題を常に平和的処理に委ねようとするものであったから。
合衆国政府は平和的処理によって、しかも他の資本主義諸国にんじて、日本と互恵的な通商修約を締結することを企てた。他国に先んずることは、新興国民としてのアメリカ人が他との競争に負けまいとする焦慮のあらわれでもあった。そして、その意識の先頭には常にイギリスがあった。合衆国政府はこの課題の遂行者として、ニューヨークの市民で、東洋相手の旅商人であった――しかし、ピアス大統領の言によれば、高潔な人格と豊富な知識の持主の――タウンゼント・ハリスを選んだのである。
タウンゼント・ハリスが俄か仕立ての外交官として渡日し、日本の封建主義的支配の牙城である江戸へ単身のりこんで、攘夷の白刃をくぐりながら、逞しい気魄と、比類のない外交手腕をもって開国の難事業をなしとげたとき、「資本主義的世界の創造者」をもって任じていたイギリスをはじめ、これに関心をよせていた国々は驚嘆した。そしていずれも率直にハリス外交の輝しい勝利をみとめ、その驥尾(きび)に附して、この先達の開いた門をくぐったのである。20世紀初のイギリスの史家ロングフォードは、この業績をたたえて、「世界の外交史上、誰よりも優れた貢献」と述べている。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
ハリス (1804-1878) 74歳で死亡 (一部抜粋しています)
ペリー提督が細目にこじあけた日本の扉を、さらに大きくおしひらいたアメリカ公使タウンゼント・ハリスは、1858年(安政5年)「日米修好通商条約」の調印が終わると、しきりに帰国を望んだが許されなかった。彼はついに1861年リンカーン大統領あてに高齢のゆえをもって辞職願を出し、やっと許可を得て、1862年ニューヨークに帰った。唐人お吉を寵愛した、などはウエット好みの日本人の作り話である。
しかし当時アメリカは南北戦争中であった。彼は年金でつつましく余生を送り、1878年明治11年)2月25日、喀血して死んだ。
日本駐在の6年間のあいだに、老人性結核にでもかかったのであろうか。日本駐在をふくめて11年間海外にあった彼は、親戚知人とも疎遠になり、日本を開国させた功績も南北戦争とその余波の騒ぎのため、ほとんど世人の注意をひかず寂しく死んだ。
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このアメリカのハリスといい、イギリスのパークスといい、幕末の日本を震撼させた碧(あお)い眼の人物たちは、それぞれの本国ではほとんどだれも知らない辺境の一外交官に過ぎなかったのである。

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