じじぃの「人の死にざま_317_コロンブス」

コロンブス - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%96%E3%82%B9/922/
クリストファー・コロンブス 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=k_2MutCLM5M
地球ドラマチック 『コロンブスは世界をどう変えたのか〜“新大陸”に「あったもの」「なかったもの」』(後編) 2010年7月8日 NHK
イタリア生まれの船乗りクリストファー・コロンブスが、現在のフロリダ半島の沖合のバハマ諸島に到着したのは1492年。それはヨーロッパと「新大陸」アメリカの歴史的な出会いの瞬間でした。コロンブスの到達を境に、アメリカの自然や生態系は大きく姿を変えていきます。そしてヨーロッパの文明も、この出会いによって大きく変化することになったのでした。
コロンブスの「新大陸」到達以降に始まった文明の交流、人やモノの移動、環境や生態系の変化などから、今日の世界につながる新たな歴史の過程を、ダイナミックに描き出します。
http://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20100708-31-07080
クリストファー・コロンブス フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
クリストファー・コロンブス(1451年頃-1506年5月20日)はイタリアのジェノヴァ出身の探検家・航海者・商人。大航海時代において最初にアメリカ海域へ到達したイタリア人である。

                                    • -

『人類の歴史200万年』 READERS DIGEST 1980年発行 (一部抜粋しています)
西回りで東洋へ
ディアスやガマの航路は、探検という点では、コロンブスとマゼランには遠く及ばない。彼らの達した地点へは、いずれだれかが行きついていたに違いない。しかし、コロンブスたちの場合は、まったく発想を転換する必要があったのである。海の果てに近づくことを恐れた乗組員に、剣で脅かされて進路を変えさせられるような目に遭いながら、断固として信念を変えなかったこの2人の航海者は、真に探検家として呼ばれるにふさわしい人物である。
1492年8月、コロンブスはスペインのイサベル女王の援助のもとに、サンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャ号の3隻でカナリア諸島に向かって出航した。10月、カナリア諸島を出発して33日後、コロンブスバハマ諸島のサンサルバドルに上陸した。さらに航海を続けて、キューバとハイチに達した。彼はキューバを日本と間違えていたらしい。
さらに3回の航海で、コロンブスプエルトリコトリニダード、ジャマイカを訪れ、南アメリカ本土のベネズエラと中央アメリカのパナマ地峡に上陸した。しかしこのアメリカの発見者は、そこに一大大陸があることをまったく気付かなかった。コロンブスパナマの西への海路を捜しながら、自分が中国に近づいているものと考え、大西洋からわずか9日進めば別の大海があると聞いたとき、彼はそれがインド洋だと考えた。カリブ海諸島が西インド諸島と呼ばれ、新世界の原住民がインデアンと呼ばれるようになったのは、このような誤りによるものである。
コロンブスは黄金を持ち帰らなかったという理由でペテン師扱いされ、不遇のうちに死んだ。彼の発見した大陸にもアメリゴ・ヴェスプッチの名前が付けられている。

                                    • -

『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
コロンブス (1446-1506) 60歳で死亡。 (一部抜粋しています)
40代半ば過ぎから4回の大冒険によってついにアメリカを発見したコロンブスは、しかし計画字におけるスペイン宮廷への貪欲な売り込みや、航海中の船員への冷酷さによって、しだいに反感と敵意につつまれるようになり、1504年11月、58歳で最後の航海から帰ったときは出迎える者もなく、彼自身の肉体も精神も廃人同様になっていた。
コロンブスは、最初の航海にあたりスペインのフェルナンド王とイサベル女王との間に、自分が新大陸を発見したときは、自分がその地の副王たる称号を得ること、一切の富の10分の1は自分の所有となること等の契約書をとり交わしていた。彼はセルビアの船員宿泊所で、毎日宮廷へ、自分の権利を主張する手紙を書きつづけたが、何の返事もなかった。不幸なことに、そのころイサベル女王が亡くなった。
1506年2月に至って、フェルナンド王はやっと謁見の許しを与えたが謁見の結果、何ひとつ具体的な処置をとらず、契約書には頬かぶりしていた。
コロンブスは烈しい痛風に悩みながら、自分の主張を誇大妄想的な嘆願書にして王族の間を疾走していたが、ついにゆき倒れのごとく倒れ、5月20日に息をひきとった。
     ・
アメリカは、彼より後に航海したアメリゴ・ヴェスプッチの名によってアメリカと名づけられ、コロンブスの遺骨はあちこちに埋葬し直され、死後も彼の魂は安住することが出来なかった。

                                    • -

コロンブス Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=MaEtTPaFOpCjcfWPoa4D&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CCgQsAQwAA&q=%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%96%E3%82%B9%20%E7%94%BB%E5%83%8F&tbs=isch:1