じじぃの「人の死にざま_302_J・F・ケネディ」

ジョン・F・ケネディ - あのひと検索 SPYSEE
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JFK Inaugural Address 1 of 2 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=xE0iPY7XGBo
best closeup of the john f kennedy's death 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=qBnCKPCtp7s
ケネディ家 野望と権力の系譜 1/4 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=O8V7ojMRzmI
ケネディ家 野望と権力の系譜 3/4 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=H16gtJK-0d8
ジョン・F・ケネディ フウィキペディアWikipedia)より
ジョン・フィッツジェラルドケネディ (1917年5月29日-1963年11月22日)は第35代アメリカ合衆国大統領。在任中は、1962年に発生したキューバ危機の際に、ソビエト連邦との外交関係の緊張が最高潮に達し「第三次世界大戦勃発の危機」「米ソ全面核戦争の危機」と騒がれる中で事態を収拾し、米ソ全面衝突を回避したことなどで知られるが、同時期にベトナムへの軍事介入拡大を招きベトナム戦争を泥沼化させるきっかけを作った。スキャンダルも多かったものの一般的には清新なイメージのリベラル派とされ、アメリカ国民からの期待も高かった大統領であったが、任期半ばの1963年にダラスにて暗殺された。
【国内政策】
ケネディは、大統領選挙中から一貫して提唱してきた「ニュー・フロンティア精神」に基づき、その国内政策を「ニュー・フロンティア政策」と総称した。教育への連邦政府支出と高齢者医療保険、政府による景気対策を柱とする野心的な公約であり、独立以来続いていた人種差別法案の撤廃も含まれた。
1963年には中間選挙での人気取りを鑑み、所得税減税を含んだ税制改革を提案したが、これらの政策を実現させるための追加支出だけでなく、冷戦下において増加を続ける軍事費や、ケネディが進めていたベトナムへの軍事援助の増加やアポロ計画などへ対する支出の増加に対する明確な財源の確保のための施策を持ち合わせていなかったため、予算法案の多くが、ケネディの死後の1964年まで議会を通過することはなかった。

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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
11月22日−ジョン・F・ケネディ (アメリカ第35代大統領・46歳)
ダラスの街での暗殺。当時小6だった私だが親愛なるアメリカの若き大統領ケネディの突然の死は衝撃だった。
もし、ケネディが生きていればアメリカは・・・と、死後10年にわたってそう人々に言われるほど彼の死は惜しまれたものだった。
ニューフロンティアを合言葉にケネディは冷たい戦争の一方の当事者、ソ連フルシチョフ首相とウィーンで会談したり、黒人の地位改善にも本腰を入れて取り込もうとしていた矢先の死だった。
政治家としてどれほど無念であったことだろうか。テロ行為はいかなる理由があろうとも許せぬことだと子供心に思ったことを昨日のことのように思い出す。

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TIMEが選ぶ20世紀の100人〈下巻〉アーチスト・エンターテイナー・ヒーロー・偶像・巨頭 徳岡孝夫 訳 1999年発行
【名門】ケネディ 【執筆者】ヒュー・サイディ (一部抜粋しています)
ケネディ一族。このわれわれの時代の卓越したアメリカの政治家一族は、空に燦然と輝く星のごとく、われわれには縁遠い伝統的存在になっているようだ。だが、地上に目を向ければ、これまでにはないほど大勢のケネディ家の人間がその辺を歩いている。ワシントンの有名な環状線沿いにもそういった場所はある。思いがけず、自分の子が、ジョセフとローズ・ケネディ夫妻の54人の曾孫のうちのだれかが同じ学校に通っているかもしれない。近所には、9人いた元祖ケネディ兄の中で生き残っている5人のうちのひとり、ユーニス・ケネディ・シュライバーがいるかもしれない。メリーランド州議会では、殉職したジョン・ケネディの甥(そしてジョセフトローズ・ケネディ夫妻の29人の孫のひとり)マーク・シュライバー議員が自分たちのために働いてくれることになるかもしれない。殺されたロバート(ポビー)ケネディの長子、キャスリーン・ケネディ・タウンゼントの拡大する政治力の影響を受けるかもしれない。彼女は現在メリーランド州副知事だが、さらに上の地位を目指すように勧められている。
そんな環状線に住む人は、通勤途中、ポトマック川公園道路を車で走っている時に、まだ元気なボビーの未亡人を目にする幸運に恵まれるかもしれない。マスコミ関係かロビー活動の仕事をしているなら(その近所に住んでいるなら、かなりありそうな話だ)、遅かれ早かれ、マサチューセッツ州選出の上院議員デッド・ケネディか、その息子でロードアイランド州選出の下院議員パトリック・ケネディと同席することになる。彼らは、政界にちょっとした金の雨を降らせることができる。議会でも指導的立場にいる人物だ。アルファルファ・クラブの夕食会といった、もったいぶった上流階級の催しに出席する、それほど伝説的でない環状線地帯の住民は、混雑した大広間を見渡して、キャロライン・ケネディ・シュロスバーグか、若くてハンサムなジョン・ケネディ・ジュニアが到着するとどよめきが起こることに驚くだろう。このふたりは、タブロイド紙の見出しを飾るたびに謎めいた魅力を増す。ケネディ政権という華やかで魅力ある時代の子供たちである。
ケネディ一族は、今世紀後半のアメリカ政治文化の本質だった。そんな家系はほかにはない。そこまでなったのは、冷徹な計算と無遠慮につぎ込まれる莫大な財産があったからこそだが、国民への素晴らしい貢献、無鉄砲さと魅力、そして異常なまでに繰り返しこの家族を襲った悲劇もまたその理由だ。一族の繁栄の土台を築き上げた並外れた才能のジョセフ・ケネディは、飢饉で国を捨てなければならなかった祖先の怒りを忘れない移民の家系の出身だった。しかし、彼はアメリカという魔法にかけられた。エリート校のボストンラテン語学校を出てハーバード大学に進み、倫理学や法律にはほとんど目もくれず、狂乱の1920年代には、銀行業と映画製作の世界に飛び込んでいた。彼は1929年に株式市場が大暴落する前に自分の所有する株を売り抜けていた。フランクリン・ルーズベルト大統領がジョーをワシントンに呼び、証券取引委員会を浄化する仕事を依頼した時には、なぜ、そんな詐欺師に声をかけたのかと横やりを入れる者もいた。「泥棒を捕えるには泥棒が必要だ」。これがルーズベルトの答えだった。そしてジョー・ケネディは素晴らしい仕事をした。
ジョーの次男、ジョン・F・ケネディが大統領に出馬する準備が整った時、一家の資産は個人としては世界屈指の3億〜5億ドルに上るとみられていた。「大恐慌を直接体験として感じたことは一度もなかった」と、1960年の遊説中にケネディ上院議員は語っている。「大恐慌のことはハーバード大学で学んだ」と。そのころには、ケネディ家が目指すものとして金もうけは明らかに二の次になっていた。「うちの子はだれひとりとしてビジネスに見向きもしないんだ」とジョーは自慢そうに語っている。「大事なのは家族だけだ。人生を終える時、片手で友だちの数を数えられたらラッキーな奴だ。家族を大事にしろ、そう子供には言い聞かせている」
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政権を握ったケネディ家は、ビッグズ湾やベルリンの壁などでやらかしたへまなど一切構わず、堂々と突き進んでいった。人々に感銘を与える演説、華麗な家族、国家安全保障問題で発揮する粘り強さ、公民権運動が国中で盛り上がる中で人種差別に反対する断固とした態度などから、ジョン・ケネディの人気は高まっていった。「ジャックはわたしが知る限り一番幸運な子だ」と、1961年の暗い夏が過ぎたある日のこと、ニューヨークで、長老ジョーがしゃがれ声で語った。「あいつは大統領であることがどういうことか、そのほとんどを真っ先に学んだ」
だが、その幸運も、1963年11月22日正午にダラスで尽きた。暗殺によって、その洋々たる前途は突如として遮られることになる。さまざまな調査が行われ、本や映画がどっと出た。そして突然、ジョン・ケネディの軽率な女性関係が暴露されて、ケネディ政権は汚された。ところが不思議なことに、ケネディ一族の伝説はそれらすべてを超越してしまった。彼らはアメリカの理想に心から力を注いでくれた。失敗を乗り越えて突き進む自尊心と勇気があった。ダラスでの悲劇に続いてさらに、2番目の弟もロサンゼルスで凶弾に倒れたことで、その伝説に伝説たる烙印が押された。その伝説は大くの子供たちに、アメリカの常識として伝えられていった。それは増殖するケネディ一族にとっても、伝説の中心を成す出来事だった。
一族の歩みは止まらないが、それはわれわれ人類皆同じだ。そいて現代においては、そのすべてがマスコミの目にとらえられる。テッドの名を汚すことのなった悲劇、チャパクィディック事件があった。健全で親近感を抱かせる、アメリカの力と熱狂の源であり、騒々しいが善良な家族としてとらえられていたジョーの孫の家庭のいくつかは、完全に崩壊していた。離婚、突飛なセックス・スキャンダル、非劇的な事件、それらはすべてタブロイド紙をにぎわし、トーク番組の司会者が世界へ向けてわめき立てた。
しかし、こういった刺激的なスキャンダルを乗り越えて、健在な87人のケネディ一族のほとんどはしかるべき人生を送っている。家族の人数と起こった事件の割合を比較すれば、全国平均を大幅に下回る。一族の成人のほとんどは何らかの修士号や博士号を取得している。一族のほぼ全員が、しかるべき年齢に達するとある程度の公職に就いている。ジョー・ケネディの莫大な遺産は信託財産として分けられた。一族の教育や行き来の費用はそれで楽に賄われているが、彼らがいま超大金持ちだったり、超怠惰だったり、超横柄だったりするのは、そのせいではない。公職と言う冒険がいまなお、この一族をもっとも強く突き動かしている。「これほどエキサイティングなものはない」と長老のジョーはずっと前に語っている。第4世代の人々からも、その声が聞こえてくる。

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ジョン・F・ケネディの言葉
「国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを問いかけてください」

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