じじぃの「人の死にざま_294_永井・荷風」

永井荷風 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E8%8D%B7%E9%A2%A8/8748/
荷風も愛した浅草の老舗洋食店 アリゾナキッチン 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=dxjOovYQG80
クローズアップ現代 「我が愛する日本へ 〜ドナルド・キーン89歳の決断〜」 2011.6.29 NHK 動画あり
日本人とは何か。キーンさんはその謎を解く手がかりとして、戦中戦後の作家の日記に注目しました。永井荷風伊藤整山田風太郎など、およそ30人の作家の日記でした。
http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail.cgi?content_id=3065
永井荷風 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
永井 荷風は、日本の耽美的な作家・随筆家。本名『壯吉』。号『金阜山人』『断腸亭主人』ほか。ストリップの楽屋への精勤など、晩年の奇行が話題に残るが、研鑽の成果の文業は豊かである。
【生涯】
永井久一郎、恒(つね)の長男として、東京市小石川区金富町四十五番地(現:文京区春日二丁目)に生まれた。父久一郎は内務省衛生局に勤務していた。母恒は、久一郎の師である儒者鷲津毅堂の二女。
1903年明治36年)(24歳)、実業を学ぶべく父に渡米させられたのを、文学修業の好機と喜んだ。すなわち、1907年までタコマ、カラマズー、ニューヨーク、ワシントン、などにあってフランス語を修め、日本大使館や正金銀行に勤め、さらに1907年から1908年にかけてはフランスに10ヵ月滞在し、リヨンの正金銀行に勤め、退職後パリに遊んだ。
1910年、森鴎外上田敏の推薦で慶應義塾大学文学部の主任教授となり、機関誌『三田文学』を創刊した。
【その他】
公刊されない類の作品として、『四畳半襖の下張』と『ぬれずろ草紙』とが、ひそひそ話の種になっている。

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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
4月30日−永井荷風 (作家)
世捨て人だった。国家によってでっち上げられた考徳秋水たちの大逆事件。国家が1個人を攻撃する残酷さ。それでも傍観者の域を出られずいる自分自身に嫌気がさし、江戸時代の戯作師もどきへと方向転換したあたりに永井荷風の文学の原点があるように思える。
だから慶大教授になり、『三田文学』を創始。そして洋行帰りの作家として天下に放った『ふらんす物語』や『あめりか物語』といった作品世炉も赤線地帯に身を落としながら日々をけんめいに生きた女たちを愛したところから生まれた『腕くらべ』、『墨東綺譚』、『四畳半襖の下張』といったエロチックがかった小説の方がより荷風らしさが滲み出ているのではないだろうか。
死んだ時に彼は現金20万と2800万円に及ぶ貯金通帳を持っていたと言われているが、それは世の中に貸し借りを持たずに生きるという世捨て人らしいポリシーだったといえるだろう。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
永井荷風 (1879-1959) 79歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和32年荷風市川市八幡の40坪の敷地に12坪の家を新築し、そこにひとり住んで、食事は主として浅草のアリゾナという店で、面倒なときはすぐ近くの京成八幡駅裏の大黒屋という大衆食堂でとるのを常とした。
34年3月1日、アリゾナで昼食を食べてから、歩いているうちに、雨の中で彼は転んで膝をしたたか打った。そこから雷門まで、常人なら数分の距離を数十分かかって歩き、雷門からタクシーに乗って帰宅した。この日が、彼が浅草へいった最後の日であり、以来彼はほとんど臥床して暮らすようになった。
「4月29日。祭日。陰」とあるのが、『断腸亭日乗』の最後の文字である。
その日、彼は午前11時ごろ大黒屋にゆき、酒1本を飲み、カツ丼をきれいにたいらげて帰った。
東京新聞記事。「4月30日午前9時ごろ荷風氏も身の回りの世話をしている市川市の福田とよさん(75)が、いつものように荷風氏宅に出勤。掃除しようと荷風氏に声をかけたところ返事がないので不審に思い、奥6帖の間のフスマを掛けたところ、荷風氏はふとんから半身を乗り出しているのを発見、付近の佐藤病院に急報した。
死体は南向きでうつぶせで、紺の背広コゲ茶のズボンをはき、頸にマフラーを巻いていた。吐血したらしく、畳30センチ四方が血に染まっており、まくらもとの火ばちに吐いたらしい飯つぶがついており、つねに大金を入れて持って歩いていたといわれるボストンバッグはまくらもとに置いてあった。
近くの飲食店では、荷風氏は29日午前11時ごろ食事に来たが、いつもより顔色がとくにさえなかったという。
佐藤医師の話によると、死亡推定時刻は同夜午前3時ごろで、胃かいようによる急死と見られているが、一応市川署では変死と見て、今関捜査課員らが検屍を行っている」
新築して2年目の家なのに、6帖の居間は掃除婦もはいることを禁じられていたため、蜘蛛(くも)の巣だらけで、安物の手あぶり火鉢、炭籠、ボストンバッグ、埃まみれの書物が散乱している状態であった。
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彼は、57歳のとき、昭和11年2月24日の『断腸亭日乗』に次のごとき遺言状を記している。
「一、余死する時葬式無用なり。死体は普通の自動車に載せ直(たたち)に火葬場に送り骨は拾うに及ばず。墓石建立亦(また)無用なり。新聞紙に死亡広告など出す事元(もと)より無用。
 一、葬式不履行の理由は御神輿(おみこし)の如き霊柩自動車を好まず、又紙製の造花、殊に鳩などつけたる花環を嫌うためなり」
しかし。死が事実になったときは、簡素ながら天皇より祭祀(さいし)料、文化勲章などを飾った仏式葬儀は行われ、雑司ヶ谷墓地にも墓が作られた。

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