じじぃの「人の死にざま_535_谷崎・潤一郎」

谷崎潤一郎 - あのひと検索 SPYSEE
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谷崎潤一郎『蓼喰う虫』 Junichiro Tanizaki - tade kuu mushi 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=1u9GH8Yc5Wc
痴人の夢 予告編 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=uAeRJMGIO9k&feature=related
芦屋市谷崎潤一郎記念館
http://www.tanizakikan.com/
NHKスペシャル 「私が愛する日本人へ 〜ドナルド・キーン 文豪との70年〜」 2015年10月10日
【ナビゲーター】渡辺謙 【ドラマ出演】川平慈英篠井英介斉藤由貴南野陽子
「日本人と共に生き、共に死にたい」大震災の直後、日本国籍を取得したアメリカ生まれの日本文学研究者、ドナルド・キーンさん93歳。
キーンさんは戦後70年に渡って、日本の文学の魅力を世界に伝え続け、「日本人よりも日本を知る男」とも呼ばれる。
番組では、ドラマとドキュメンタリーを交差させながら、その波乱に満ちた歩みを描く。最初の玉砕となったアッツ島の戦い(1943年5月)に参加し、手りゅう弾を胸で破裂させて自決した日本兵の遺体を目にした。
アッツ島日本兵士が残した日記に、戦地での正月では13粒の豆を7人で分け合って祝ったことが書かれていた。
多くの日本人が戦に熱狂する中、戦時中に谷崎潤一郎は、小説『細雪』を書き続けた。日本の美しいことを忘れるな、との思いがあった。時代に流されずに、信じる道を歩む。その姿が日本人の美しい姿だとキーンさんは言う。
http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/46/2586635/index.html
谷崎潤一郎 ウィキペディアWikipedia) より
谷崎潤一郎は、日本の小説家。明治末期から、第二次世界大戦後の昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き終生旺盛な執筆活動を続けた。
作風は、初期は耽美主義の一派とされたが、生涯にわたって様々に変遷し続けた。漢語・雅語から、俗語や方言までを使いこなす端麗な文章が特徴。『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』など通俗性と芸術性を高いレベルで兼ね備えた数多の秀作を残し、「文豪」「大谷崎」と称された。
【経歴】
谷崎倉五郎、関の次男として東京府東京市日本橋蛎殻町に生まれた。弟の谷崎精二は、後に作家、英文学者(早稲田大学で教員)となった。
1908年(明治41年)、高校卒業後東京帝国大学文科大学国文科に進むが後に学費未納により中退。在学中に和辻哲郎らと第2次『新思潮』を創刊し、処女作『誕生』(戯曲)や小説『刺青』(1909年)を発表。早くから永井荷風によって『三田文学』誌上で激賞され、谷崎は文壇において一躍新進作家としての地歩を固めた。以後『少年』、『秘密』などの諸作を書きつぎ、自然主義全盛時代にあって物語の筋を重視した反自然主義的な作風を貫いた。
関東大震災後、谷崎は関西に移住し、これ以降ふたたび旺盛な執筆を行い、次々と佳品を生みだした。長編『痴人の愛』では妖婦ナオミに翻弄される男の悲喜劇を描いて大きな反響を呼ぶ。続けて『卍』、『蓼喰ふ虫』、『春琴抄』、『武州公秘話』などを発表し、大正期以来のモダニズムと中世的な日本の伝統美を車の両輪として文学活動を続けていく。こうした美意識の達者としての谷崎の思想は『文章読本』、『陰翳禮讚』の2評論によって知られる。この間、佐藤春夫との「細君譲渡事件」、2度目の結婚・離婚を経て、1935年(昭和10年)に3度目の夫人森田松子と結婚して私生活も充実する。
戦争中、谷崎は松子夫人とその妹たち四姉妹との生活を題材にした大作『細雪』(作品中、松子夫人は“二女「幸子」”として登場)に取り組み、軍部による発行差し止めに遭いつつも執筆を続け、戦後その全編を発表する(毎日出版文化賞、朝日文化賞受賞)。
戦後は高血圧症が悪化、畢生の文業として取り組んだ『源氏物語』の現代語訳も中断を強いられた。しかし、晩年の谷崎は迫りくる老いと闘いながら執筆活動を再開する。『過酸化マンガン水の夢』(1955年)を皮切りに、『鍵』、『瘋癲老人日記』(毎日芸術賞)といった傑作を執筆し、その文名は高まった。ノーベル文学賞の候補とされただけでなく、1964年(昭和39年)には日本人で初めて全米芸術院・米国文学芸術アカデミー名誉会員に選出された。
痴人の愛 概要】
カフェの女給から見出したナオミを育て、いずれは自分の妻にしようと思った男・河合譲治が、次第に少女にとりつかれ、破滅するまでを描く。耽美主義の代表作で、「ナオミズム」という言葉を生み出した。 ナオミのモデルは、当時谷崎の妻であった千代の妹・小林せい子である。なお、谷崎は連載再開の断り書きで、この小説を「私小説」と呼んでいる。
春琴抄 概要】
盲目の三味線奏者春琴に丁稚の佐助が献身的に仕えていく物語の中で、マゾヒズムを超越した本質的な耽美主義を描く。句読点や改行を大胆に省略した独自の文体が特徴。
【鍵 概要】
ある初老の男が、嫉妬によって性的に興奮することを目的として、妻と若い知人の男を接近させる。その経緯を日記に書く。妻は、夫の企みを察するが、拒絶せずにそれに同調する。
細雪 概要】
谷崎は第二次世界大戦中の1942年秋に河口湖畔の勝山に滞在し、月刊誌『中央公論』で『細雪』の執筆を始める。夫人の松子、義姉、義妹たち四姉妹の生活を題材にした大作だが、1943年に軍部から「内容が戦時にそぐわない」として掲載を止められる。1944年(昭和19年)には私家版の上巻を作り、友人知人に配ったりしていたが、それも軍により印刷・配布を禁止される。疎開を経て、戦後は京都鴨川べりに住まいを移し、1948年(昭和23年)に作品を完成させる。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
谷崎潤一郎 (1886-1965) 79歳で死亡。 (一部抜粋しています)
谷崎は生来病気らしい病気をしたことがない丈夫な肉体の持ち主であったが、昭和10年49歳で憧憬の森田松子と、彼にとっては3度目の結婚をしたころから、高血圧の症状を感じはじめた。しかし、不安をいだきつつ、医者の診断は受けなかった。
昭和21年、60歳のとき、『細雪(ささめゆき)』終回近くを執筆中、血圧が200前後あることが判明し、はじめて医者の治療を受けるようになり、次第に回復した。
昭和27年、血圧はまた200を超え、眩暈(めまい)、記憶喪失、異常感覚等に悩まされるようになり、時に死の予感に打たれて涙ぐむこともあった。「青年時代の『死の恐怖』は、多分に空想的、文学的のものであったが、70に近い今日では『死』は恐怖よりもひたすらに悲哀をもたらすのみであった」と彼は、のち昭和34年『高血圧症の想い出』で回想している。そういう症状に苦しみながら、彼は『源氏物語』新訳の筆をすすめ、39年に完成させた。
その後健康をとり戻し、昭和31年70歳のとき『鍵』を発表したが、33年11月28日、親友笹沼源之助の金婚式の前夜、贈り物の袱紗(ふくさ)の箱書きをしている途中、突然右手に軽い麻痺が起り、以後ペンを持つと疼痛をおぼえ、夏が来ても手袋をはめていなければならないほどの冷感に悩まされるようになり、それ以来原稿はすべて口述筆記のやむなきに至った。
このときの苦悩を、昭和37年の『わが小説』に、「手が利(き)かなくなってから何より先に考えたのは、今後いかにして生活の道を立てるかと云うことであった。(中略)私は一時前途が真っ暗になったような気がした」と書いている。豪奢きわまる生活を営みつつ、あるいはそれゆえに、文豪谷崎潤一郎はまずこういう心配をしなければならなかったのである。
ついで昭和35年2月、狭心症の発作を起し、2ヵ月ばかり東大病院に入院したが、医師が回診に来るたびにベッドの上に起き上がって挨拶し、その起き上りの懸命さに、医師のほうがめんくらうほどであった。若い日傲岸(ごうがん)不敵であった谷崎も、老いては−−女性関係を除けば−−薄運の父同様の律義な老人に変わっていたのである。
それ以後、昭和36年『瘋癲(ふうてん)老人日記』、昭和37年『台所太平記』などを口述筆記で発表した。生きているかぎり、書かずにはいられない作家谷崎潤一郎の業(ごう)であった。
昭和39年7月、湯河原の吉浜蓬ヶ平に新邸が完成した。が、そのころから健康がまた悪化した。夫人が書いている。「一点を凝視するような時が目立って多くなった。そして無口になっていった。(中略)尿閉を起しカテーテルを留置しなければならなくなった。不快、苦痛はいわん方なく『こんなことして生きていたくない。これじゃ物なんか書けやしない。死にたい。書けなくなって生きていても仕様がない』と繰り返すので、私は聞く辛さに堪えかね、洗面所に閉じ籠りかくれ忍んで泪(なみだ)を拭(ぬぐ)うた」
40年7月に、潤一郎は『七十九歳の春』で前年からのことを書いている。
「そうこうするうちに、12月も押し詰って大晦日(おおみそか)になってから、果たして腎盂炎(じんうえん)の徴候を表し、熱が40度近くに上がったが、2、3日すると奇蹟的に熱が下がったので、正月早々東京お茶の水の病院に運んでもらった。
入院したのは今年の正月8日であった。船橋聖一君が体を伸ばして寝られるような大型の自動車を持っていたので、それに載せて運んでもらった。(中略)
毎日々々カテーテルの出し入れをする度毎に、顔馴染みのない、気心の分からない医師や看護婦にいじくり廻されるので堪らなく不愉快で、こんなことをいつまでも繰り返すのなら死んだ方がましだ、と思ったことは度々で、『死にたい、死にたい』と終始言い暮した」
2月5日に、膀胱瘻(ぼうこうる)の手術(腹に孔をあけて、膀胱から直接外へ尿を出す手術)を受けた。
その結果、もと18貫あった体重が12貫まで痩せていたのが、次第に回復し、食欲も出てきて、神田明神の甘酒、納豆、連雀町のやぶそば、銀座の浜作、辻留などから何のかのととり寄せて食べるようになった。
「こんなにも食べるものがおいいしいものか、と自分ながら不思議であった」と、彼は書いている。潤一郎は死ぬまで大美食家という1つの根性を失わなかった。
3月9日に退院した。しかしこの『七十九歳の春』が彼の絶筆となった。
帰宅後、回復は順調に見えた。夫人は書いている。
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「終焉(しゅうえん)の前日も、『このまま寝かせて置いては僕は死んじまうよ』と喚(わめ)き一気に起き直った。泊り込んで戴いた先生方の手を借りて、漸(ようや)く体位をかえて、一応は得心が行ったかと思うと、又しても幼児のように諸手(もろて)を差し伸べて、起して起してと振り絞るような声で云った。これこそ死の手から逃れる最後の抵抗、激しい拒否と見られた。一時はどうしても東京にゆかねば、と愛用のバッグ、お財布まで持って来させ、お財布は懐中深く自ら納めた」
危篤状態のまま、7月30日の朝が来た。医者の診察を受けた直後、突然潤一郎は酸素吸入のマスクをはねのけてのけぞった。医者はただちに人工呼吸を施し注射を打ったが、そのまま絶命した。7時35分であった。
「寝室の窓から夏の強烈な陽が容赦なく、息絶えたばかりの夫の顔に降り注いでいた」(谷崎松子『倚松庵(いしょうあん)の夢』)

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