じじぃの「人の死にざま_283_犬養・毅」

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犬養毅 演説「新内閣の責務」 1932総選挙 動画 YouTube
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犬養毅 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
犬養毅は、日本の政治家。勲等は勲一等。通称は仙次郎。号は木堂。
衆議院議員、文部大臣(第13・31代)、逓信大臣(第27・29代)、内閣総理大臣(第29代)、外務大臣(第45代)、内務大臣(第50代)などを歴任した。
【生涯】
備中国賀陽郡庭瀬村(現・岡山県岡山市北区川入)に大庄屋 犬飼源左衛門の次男としてうまれる(後に犬養と改姓)。
慶應義塾在学中に、郵便報知新聞(後の報知新聞)の記者として西南戦争に従軍(ちなみに、抜刀隊が「戊辰の復讐!」と叫びながら突撃した事実は、一説には犬養の取材によるものとも言われている)。東海経済新報記者、統計院権少書記官をへて、明治16年(1882年)、大隈重信が結成した立憲改進党に入党し、大同団結運動などで活躍する。
昭和6年(1931年)12月に立憲民政党の第2次若槻内閣が崩壊したため、反対党の総裁である犬養に組閣の大命が降下、内閣総理大臣に就任する。世界恐慌、そして満州事変の最中という荒波の中の船出であった。大蔵大臣には高橋是清を任じ、組閣と同時に金輸出再禁止を行い積極財政をとるなど、不況対策に努めた。また、外務大臣には女婿の芳澤謙吉を任じることにより、軍部に左右されがちな外交政策をリードしようとした。犬養の就任後は桜田門事件、血盟団事件と不穏なテロ事件が相次ぎ、ファッショ排撃を訴えた犬養自身も五・一五事件で、海軍将校の凶弾に倒れてしまった。享年77。
【高潔にして毒舌の士】
私生活では全く無欲の人で、細かいことには無頓着だった。嫌いな食べ物が出ても文句を言わず、着せられる着物を黙って着ていた。議会事務局で働く少年が病気になると、自宅に引き取って学校に通わせるなど、困った人を見ると援助の手を差し伸べずにはいられないところもあった。宮崎滔天ら革命派の大陸浪人を援助し、宮崎に頼まれて中国から亡命してきた孫文蒋介石、インドから亡命してきたラス・ビハリ・ボースらをかくまったこともあった。宮崎は当初、犬養が大隈重信寄りだったため警戒していたが、自宅で会ってみると、煙草盆片手にヒョロヒョロと出てきて、あぐらをかいて煙草を吸い全く気取らない。宮崎は直感的に「好きな人」と判断したという。ちなみに孫でエッセイストの安藤和津によると、ひどく女好きであったという。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
犬養毅(いぬかいつよし (1855-1932) 77歳で死亡。
昭和7年5月15日午後5時半、直接行動による国家改造を企図した陸海軍軍人9名が首相官邸に自動車で乗りつけ、表玄関と裏玄関からピストルを乱射しながら突入した。いわゆる「五・一五事件」である。
そのとき食堂にいた犬養に護衛巡査が急を告げたが、犬養は「そいつらに会おう。話せばわかる」と、首をふって逃げなかった。そして、乱入して来た将校たちに、議会で弥次を制するときのように右手を上下に動かしながら、
「待て、撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こう」
といい、懐手をしたまま、無造作に別の和室に案内した。犬養は床の間を背にして坐り、まわりをとりかこんで立つ将校たちを見わたして、「靴くらいぬいだらどうじゃ」と叱り、卓上の煙草入れから敷島を1本とり、将校たちにもすすめる動作をした。このとき三上卓中尉が、
「われわれが何のために来たか判るだろう。いい残すことはないか」
と、いった。犬養はうなずいて、両手をテーブルについたまま何かを話し出そうとした。その刹那山岸宏中尉が、「問答無用、撃て!」とさけび、三上中尉と他の一人の銃口が火を噴いた。犬養は前につっ伏した。将校たちは駆け足で退去した。
そのあと女中が駈けこんでみると、卓上の血の海に犬養は血まみれの頭部を伏せていたが、女中に、右手につまんだままの煙草に火をつけるように命じ、
「いまの若い者をもういちど読んで来い。話して聞かせることがある」
と、3度繰返していった。
それから4時間後、犬養は絶命した。彼は最後まで「痛い」という言葉をもらさなかった。
前日神戸から東京入りをして、東京駅で熱狂的歓迎を受けた初訪日のチャプリンは、その自伝に、この日犬養の息子の健と相撲を見物中凶報を聞き、2時間後、まだ血のたまっている首相官邸の現場を見た、とか、暗殺段はその時刻自分が官邸のお茶の会に招かれていることを想定して、アメリカと戦争を起こすために自分をも犬養もろとも殺す予定だった、と述べているが、果たして事実かどうか。
−−それはともかく、多年「清貧」で聞こえていた犬養に、死後莫大な財産が残されていることを知って、世間は驚いた。犬養は決して財閥の走狗(そうく)ではなかったが、しかし青年将校たちの決起は、まるきり見当はずれでもなかったのである。

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【次代への名言】凛々の政治家編(33) 2010.5.29 MSN産経ニュース
「政治家の道がほかの事業と異なるところは、目的が自己の利害にあらずして、一国の利害、人類の利害のために心力を傾注するにある」犬養毅
能力は頭抜(ずぬ)けている一方、正邪の念が強すぎ、寛容さに欠ける。中小政党の党首が関の山−。犬養毅はそう思われてきた。彼自身、「老生は一生の殆(ほとん)ど全部が逆境」と述懐している。が、そんな政治家・犬養を必要とする時代が到来する。
昭和4(1929)年9月、最大野党・政友会の総裁を務めていた田中義一前首相が急死した。最高幹部会が後任に指名したのは、党長老ながら4年前に入党したばかりの74歳の犬養だった。
受諾のさい、「老人の冷や水」とおどけてみせたが、冒頭の信念を持つ犬養である。「現在の政党は権力を握ることを唯一の目的としているが、之(これ)は政界のすべての病根である」とは総裁としての初演説での一節。「政権のみを目当てに争うとすれば元亀天正(げんきてんしょう)(戦国時代)の昔と変わらない。ゆえに政党は政策で戦わねばならぬ」。彼のいう政策にはもちろん「有言実行の」の但(ただ)し書きがつく。これは翌年の総選挙での第一声だ。
昭和6年師走。3ヵ月前に起きた満州事変と続くクーデター未遂事件(10月事件)を処理しきれない民政党若槻礼次郎内閣が総辞職した。そして犬養率いる政友会に組閣の大命が下る。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100529/acd1005290305000-n1.htm
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