じじぃの「人の死にざま_281_山下・清」

山下清 - あのひと検索 SPYSEE
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風之荘「円相」山下清 動画 YouTube
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放浪の画家 福島へ 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=8mWR38lVmSk
山下清作 「ロンドンのタワーブリッジ

山下清
http://www.yamashita-kiyoshi.gr.jp/
美の巨人たち 山下清「ロンドンのタワーブリッジ 2013年7月20日 テレビ東京
【ナレーター】小木薫
今日の一枚は、放浪の画家・山下清作「ロンドンのタワーブリッジ」。イギリスを代表する風景です。テムズ川にそびえ立つ二つの塔。開閉式の橋げたは跳ね上げられ、今まさに大きな客船が通過しようとしています。それをやり過ごそうと待っているヨットや、颯爽と走り抜けるモーターボート。初夏の陽射しが反射し、川面が光り輝いています。しかし川面を揺らす無数の波や街路樹の一本一本の細かなディテールまで、微細に千切られた色紙で描き上げられているのです。
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/backnumber/130720/index.html
山下清 ウィキペディアWikipedia)より
山下清は、日本の画家。日本中を放浪していたことで知られる。本名は大橋清治。
【経歴・人物】
東京府東京市浅草区田中町(現・東京都台東区日本堤)に、大橋清治・ふじの長男として生まれる。翌年には関東大震災によって田中町一帯が焼け、両親の郷里である新潟県新潟市(現:中央区)白山に転居するが、その2年後の3歳の頃に重い消化不良になり、一命は取りとめたものの、後遺症で軽い言語障害、知的障害に進行。1926年(大正15年)には浅草に戻る。
1934年(昭和9年)5月、千葉県東葛飾郡八幡町大字八幡字衣川(現:千葉県市川市八幡四丁目)の知的障害児施設「八幡学園」へ預けられる。この学園での生活で「ちぎり紙細工」に遭遇。これに没頭していく中で磨かれた才能は、1936年(昭和11年)から八幡学園の顧問医を勤めていた精神病理学者の式場隆三郎の目に止まり、式場の指導を受けることで一層充実していった。
1938年(昭和13年)12月に、東京市京橋区銀座(現:中央区銀座)の画廊で初個展を開催、1939年1月には、大阪の朝日記念会館ホールで展覧会が開催され、清の作品は多くの人々から賛嘆を浴びた。梅原龍三郎も清を高く評価した一人であった。
21歳の時、食堂で手伝いをしていたところにやって来た八幡学園の職員によって、無理やり徴兵検査を受けさせられたが、兵役免除となる。この記録は『放浪日記』(1956年)にまとめられた。なお、この時のいでたちとして、テレビドラマなどの影響もあり、リュックを背負う姿はあまりにも有名であるが、実際にリュックを使っていた期間は2年程度と短く、当初は茶箱を抱えての旅であり、その後風呂敷、リュックと変化していく。
戦後は「日本のゴッホ」、「裸の大将」と呼ばれた。1956年の東京大丸の「山下清展」を始め、全国巡回展が約130回開かれ、観客は500万人を超えた。大丸の展覧会には当時の皇太子も訪れた。1961年6月、式場隆三郎らとともに約40日間のヨーロッパ旅行に出発。各地の名所を絵に残した。
晩年には、東京都練馬区谷原に住み、『東海道五十三次』の制作を志して、東京から京都までのスケッチ旅行に出掛けた。およそ5年の歳月をかけて55枚の作品を遺している。ただし、高血圧による眼底出血に見舞われ、その完成は危ぶまれていた。1971年7月12日、脳出血のため49歳の若さで死去。

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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
7月12日−山下清 (画家)
"裸の大将"として日本中に愛された画伯である。
精神薄弱ではあっても山下の自由人に根ざす発想は限りなく宇宙的であったように思う。
独特のちぎり絵で山下は人間とはかくも個性的であることを私たちに教えてくれた。
1934年、11歳で山下は千葉県市川市にある精薄児収容施設・八幡学園に入れられるのだが根っからの自由人である彼はやたらと規則にしばられるのを嫌がり、施設を飛び出す。
映画やテレビドラマでの「裸の大将」はいささかオーバーにしてもひたすら足の向くまま、気の向くまま、それこそ風のような人生をおくった人だった。
「兵隊の位で言うと・・・・」と、自分の絵の自己評価する時に使った"山下語録"は流行語にまでなった。
もちろん、山下人気は特異なキャラクターによること大だが『桜島』や『両国の花火』は作品としても高い評価を受けている。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
山下清 (1922-1971) 49歳で死亡。
精薄児に生まれながら、長ずるに従って貼絵によって異常な美の世界を作り出して「日本のゴッホ」と呼ばれ、好んで裸に白い越中ふんどし、ぺしゃんこのリュック、ちびた下駄で各地を放浪し、その天真流露の発言に"裸の大将"と愛された山下清は、昭和45年4月、千葉の館山に旅行中、ホコリが眼にはいってこすったとき異常に出血し、ひどい高血圧であることが判明した。
「人間、死んだら何もできなくなるもんな、やっぱり」
と、素直に考えた彼は、唯一のたのしみであった食事も命じられるままに制限し、もう一つのたのしもであったプラモデルづくりもやめ、いちじは72キロあった体重も56キロまで減量したが、昭和46年7月11日夜9時ごろ、練馬区谷原の自宅で、弟の妻の礼子がふと2階のアトリエをのぞくと、彼はじゅうたんの上に食べたものを吐いて、その中に倒れていた。
まだ意識があり、何時かと腕時計を見るようなしぐさをした。
医者を呼んだが、12日の朝10時35分、息をひきとった。脳溢血であった。

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