じじぃの「人の死にざま_1579_山下・奉文(陸軍軍人)」

敵軍遂に白旗揚ぐ 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=5WL2sMh2ufI
降伏調印を迫る山下奉文大将

山下奉文 ウィキペディアWikipedia) より
山下 奉文(やました ともゆき、1885年(明治18年)11月8日 - 1946年(昭和21年)2月23日)は、日本の陸軍軍人。第二次世界大戦当時の陸軍大将である。
【軍事裁判】
降伏時は捕虜として扱われたが、すぐに戦犯としてフィリピンのマニラにて軍事裁判にかけられる。1945年(昭和20年)10月29日審理開始。法廷ではシンガポール華僑虐殺事件、マニラ大虐殺等の責任を問われ、12月7日に死刑判決を受けた。
死刑判決後、米陸軍の法務将校からなる山下の弁護団は、判決を不服としてフィリピン最高裁アメリカ連邦最高裁判所に死刑執行の差止めと人身保護令の発出を求める請願を出した。しかし米最高裁は6対2の投票で請願を却下し、山下はマニラで絞首刑に処せられた。
刑の執行は軍服の着用も許されず、囚人服のままで行われている(当時、ほとんどの将校の死刑が囚人服で絞首刑という、軍人の名誉を重んじない死刑方法であった。ただし、同じくマニラの軍事裁判で死刑判決が下された本間雅晴の場合は略式軍服の着用が認められ、名誉を重んじての銃殺刑であった)。

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『誰も書かなかった 日本史「その後」の謎 雑学総研/編 中経の文庫 2015年発行
マレーの虎」と恐れられた山下奉文はなぜ有罪になったのか? (一部抜粋しています)
太平洋戦争開戦以降、マレー方面軍、満州第一方面軍、フィリピン方面軍で司令官をを務めた陸軍軍人・山下奉文
1942(昭和17)年2月、シンガポール攻略にあたり、イギリス軍司令官アーサー・パーシバルに「イエスか、ノーか」と無条件降伏を迫った人物として知られる(この言葉に恫喝の意味合いは含まれていないと考える識者は少なくない)。
だが、以降の日本軍人はこのような言葉を吐くことができなくなる。ミッドウェー海戦(同年6月)の敗北ののち、一気に日本軍が劣勢に立たされるからだ。山下は、戦争が終結する直前の1945(昭和20)年7月末には、すでにゲリラ戦を指示することを覚悟し、自身は自決すると決めていたようである。
だが、実際に8月15日を迎えると、山下の心には自身の自決よりも、まずは部下を無事に日本へ連れて帰ることの方が先決事項となった。それゆえ、彼は1日も早い降伏を行なって、兵士が1人でも飢え死にすることのないようにしたのだ。9月3日、山下はバギオ(フィリピン・ルソン島西部)で降伏調印を済ませた。山下の第二次世界大戦は、ここに終わりを告げた。
では、その後、山下はどんなその後を送ったのだろうか?
実は山下は、降伏調印を済ませた直後に捕虜となり、10月9日には戦争犯罪容疑者として早くも起訴されてしまうのだ。しかも、その後の処理の仕方も素早いもので、同月30日には裁判が開始され、12月8日には判決が下っている。その判決内容とは、絞首刑であった。
自身の裁判において、山下は自身が関知していない犯罪も多く含まれていないこと、そして戦時という特殊な状況から考えて無罪に一縷(いちる)の望みをかけていた。
また、客観的に考えても山下の戦時中の罪は重いものとはみなされていなかったようで、アメリカ、イギリス、オーストラリアから派遣されてきた記者たちの皆が山下の無罪を信じたのだ。
だが、結果はそうはならなかった。
一説によると、山下の処刑は、「マレーの虎」と呼ばれて恐れられ山下の率いた軍によってアメリカやイギリスが屈辱を受けたことによる「仕返し」ではないかとも囁かれている。山下に「イエスか、ノーか」と降伏を迫られたパーシバル司令官も、死刑執行に立ち会ったとされている。
1946(昭和21)年2月23日、午前3時半少し前。
マニラから東南へ60キロほど離れた収容所で、山下奉文は刑死した(享年61)。