じじぃの「人の死にざま_885_H・マティス」

アンリ・マティス - あのひと検索 SPYSEE
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Henri Matisse 動画 YouTube
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Henri Matisse 動画 YouTube
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ダンス(La Dance) 画像
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金魚(Goldfish) 画像
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ブルー・ヌード(blue nud) 画像
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美の巨人たち マティス「ブルー・ヌード」 2011年1月15日 テレビ東京
【ナレーター】小木薫
「色の魔術師」と呼ばれ、その過激な色使いでフォービズムと呼ばれる色彩運動を牽引したマティス。理屈では収まらないマティスの色彩に、ピカソは終世嫉妬したと言います。ところが、フォービズムの先駆者として一躍時代の寵児となった矢先、突然彼はフォービズムを捨て旅に出ました。現実にはあり得ないカラフルな色でキャンバスを埋め尽くす自分のスタイルに、疑念を抱き始めていたのです。本当の自分自身の色を求めて放浪の旅に出た彼がモロッコにやって来たのは、42歳を過ぎた頃でした。北アフリカの強烈な光と色彩を目にした画家は、ここで色彩の持つ本当の力を知るのです。
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/backnumber/110115/
アンリ・マティス フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
アンリ・マティス(Henri Matisse)は、フランスの画家。野獣派(フォーヴィスム)のリーダ−的存在であり、野獣派の活動が短期間で終わった後も20世紀を代表する芸術家の一人として活動を続けた。自然をこよなく愛し「色彩の魔術師」と謳われ、緑あふれる世界を描き続けた画家であった。
【生涯】
マティスの初期の作風は写実的なものを志していたが、次第にフィンセント・ファン・ゴッホ 、ポール・ゴーギャン後期印象派の影響を受け、自由な色彩による絵画表現を追究するようになる。『緑のすじのあるマティス夫人の肖像』(1905年)、『ダンスI』(1909年)など、大胆な色彩を特徴とする作品を次々と発表し、モーリス・ド・ヴラマンクアンドレ・ドランらと共に野獣派と呼ばれるようになる。しかし、フォーヴィスムとしての活動は1905年から3年ほどの間だけで、それ以降は比較的静かで心地の良い作品を描くようになる。
晩年、南仏ヴァンスのドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂の内装デザイン、上祭服のデザインを担当。この礼拝堂は、マティス芸術の集大成とされ、切り紙絵をモチーフにしたステンドグラスや、白タイルに黒の単純かつ大胆な線で描かれた聖母子像などは、20世紀キリスト教美術の代表作と目される。

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『一冊でわかる絵画の楽しみ方ガイド―印象派写実主義から抽象絵画シュルレアリスムまで』 太田治子/著 成美堂 2005年出版
マティス (一部抜粋しています)
ダンス(La Dance)
マティスがダンスの光景を最初に描いたのは『生きる喜び』(1908年)の背景だった。人々が踊る輪舞(りんぶ)は画家のお気に入りのテーマとして、のちの作品にも登場するようになる。
習作を経て、ダンスを絵画の主役に取り込んだこの作品では人物が赤色で描かれ、背景の青と芝生の緑に囲まれて強烈な色彩の対比を見せる。マティスが得意とするこのような平坦な色彩は人物の動きを強調する際に効果的だ。大画面いっぱいに描かれた輪舞の光景は躍動感にあふれ、また遠心力を感じさせて鑑賞する者を圧倒するのだ。
目を閉じて一心不乱に踊り続ける5人の姿に、マティスは何を託したのだろうか。画家の想像から生みだされるダンスの動きは、晩年の作品にいたるまで繰り返し見ることができる。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
マティス (1869-1954) 85歳で死亡。 (一部抜粋しています)
若いころ法律家を志し、弁護士の修業をしているうち、20歳のとき盲腸炎をわずらって療養中、ふとグービーの『絵画論』を読んで俄然発心して画家になったマティスは、はじめひどい貧乏に苦しんだが、やがてフォービズム(野獣派)の旗手としてその絵が高く売れ出した。彼は「僕はもう傑作だけを描かざるを得ない立場になってしまったのか、と思った」という。
第二次大戦中、レジスタンス運動にたずさわった妻と娘が投獄され、彼も腸をわずらって病床に臥し「人生はつらい」と悲鳴をあげた。
が、奇蹟的な回復を見せた彼は、戦後は切り絵の制作にはげみ、80歳のとき制作した南フランスのヴァンヌ礼拝堂の壁画「白と黒の世界」は、彼の画業の総決算といわれる。
彼はニースの丘の上の白い邸宅で、晩年までベッドの上で切り絵に専念した。
1954年彼に有ったサマセット・モームは若い友人ガーソン・ケーニンにいった。
マティスには、ごく最近会った。たいそうな老人でね、もう一切が死んだも同然だ。だが、才能だけは以前にもまして冴えている。全く寝たきりでね。でも絶えずスケッチしたり、色紙を切ったりしている。大方の老人の例にもれず、ボケているところもある。私もあんなものかも知れないね」(ガーソン・ケーニン『モームの想い出』)モームは80歳であった。
マティスはその年の11月3日に死んだ。(死因は心臓麻痺と発表されたが、老衰死であろう)遺言は、「私が死んだら粉々にして、花にふりまいておくれ。でなければ、名もない木の下に埋めておくれ」という言葉だった。

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