じじぃの「人の死にざま_553_ユトリロ」

モーリス・ユトリロ - あのひと検索 SPYSEE
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Maurice Utrillo 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=DR1YoUjI5Ss
The World of Maurice Utrillo 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=JS2s-7FGmeE&feature=related
モーリス・ユトリロ 画像
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モーリス・ユトリロ フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
モーリス・ユトリロは、近代のフランスの画家。生活環境に恵まれなかったにもかかわらず、飲酒治療の一環として行っていた描画が評価され、今日に至る。母親であるシュザンヌ・ヴァラドンもまた画家であったが、彼らはそれぞれ違った方法で自分たちの絵画のあり方を確立している。
【概要】
ユトリロは、エコール・ド・パリの画家のなかでは珍しくフランス人である。作品のほとんどは風景画、それも、小路、教会、運河などの身近なパリの風景を描いたものである。ありふれた街の風景を描きながら、その画面は不思議な詩情と静謐さに満ちている。特に、壁などの色に用いられた独特の白が印象的である。第二次世界大戦後まで余命を保つが、作品は、後に「白の時代」といわれる、アルコールに溺れていた初期のものの方が一般に評価が高い。パリ郊外のサノワ・サンノワ にはモーリス・ユトリロ美術館がある。またモンマルトルにある墓には献花が絶えない。
【生涯】
●出生
1883年12月、パリ・モンマルトルの丘の麓に位置するポトー街8番地にて、午後1時頃シュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれる。彼が生まれた時母親は針子をしながらも既に画家として活動していた。そのためユトリロは身体が弱く情緒不安定であったにもかかわらず、シュザンヌは息子の世話を母親に任せた。2歳の頃ユトリロは癲癇の発作に見舞われ、その後も後遺症が残った。
●白の時代
ルイ・リボードはユトリロの才能を理解していた。モンマルトルの作品倉庫で半ダースほどの作品の購入、転売に成功し利益を得た。
ユトリロは1914年の前半をサノワで過ごし、絵を描き続けた。また買い手も見つかった。3月2日には「熊の皮」という競売で、アンリ・ボードワンによって競売にかけられた。リボードはこの時またユトリロたちとの関係を取り戻そうとしたが、かつてとは違いユトリロが外に出ないことを望むようになった。6月15日、ドルーはユトリロの作品をホテル・ドルオに出品するが失敗し、10点もの作品を買い戻すこととなった。この結果と今まで行った過度の干渉によりリボードとヴァラドンとユッテルとの間で決定的な決裂が生まれ、契約が破棄された。この結果ユトリロは安定した収入を失った。彼はルヴェルテガ博士の診療所を出た後軍隊に志願したが、8月29日医学的理由で兵役を免除された。9月1日ヴァラドンとユッテルは結婚したが、その月の末にユッテルは従軍した。ユトリロはまた酒場に入り浸るようになった。この「白の時代」に、ユトリロは数百点に及ぶ作品を残している。
●色彩の時代
この10年間でユトリロは、かつて「白の時代」に使われた光と明暗法の調和によって生み出されるコンポジションの統一感から、硬く乾いた黒い輪郭線で絵画空間を構成したフォルムの幾何学化によってモチーフ間のバランスを保つ「色彩の時代」へと移行した。 ユトリロは1914年の末に暴行と器物損壊で逮捕され、18区の警察に連行された。その後サン=タンヌ精神病院での3週間の拘束の後に、ヴィルジュイフの精神病院に移送された。
1915年1月18日に退院したが、その直後軍部によってアルジャンタンに召集された。しかし1月20日に医学的検査の結果「精神病」によって兵役免除となった。ユトリロはセザール・ゲイの店の奥で色彩の調和を探求した。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
ユトリロ (1883-1955) 72歳で死亡。 (一部抜粋しています)
モーリス・ユトリロの生涯は、酒漬けの生涯だった。
サーカスの軽業師から絵のモデルとなり、さらにその魅力的な姿態と異常な官能からおびただしい画家に身をまかせたあげく−−その中には、シャヴァンヌ、ルノワールロートレックドガの名もあり、ユトリロの父はシャヴァンヌであるという説さえある−−ついには自分も一流の画家となったマカ不思議な女シュザンヌ・ヴァラドンは、父の名も不明な子ユトリロを生んでから、幼年の彼を貧しい祖母にあずけたきり、ほとんど遺棄し、そのためかユトリロは8歳のときから葡萄酒をのみはじめ、それは障害の飲酒癖となった。
成績不良のため中学もやめさせられた少年ユトリロは、銀行や商社の使い走りとして就職したが、酒のためどこもクビになり、はてはアル中のために精神病院に入院させられる羽目になった。
そこで、彼に酒以外に何か精神を向けさせる方便のために、成長後やっと彼をひきとった母のシュザンヌは彼に絵筆を与えた。17歳のときである。それまで彼は、小学校時代もふくめて、絵に対して何ら特別な才能も興味も示したことはなかったといわれる。また母も何ら特別な期待をもたず、手をとって教えることもなかったといわれる。
アル中治療の方便が、19世紀から20世紀へかけての屈指の大画家を生むきっかけになったのだが、その抒情的で静謐(せいひつ)で甘美な絵が広く世に迎えられ、莫大な金がはいるよおうになっても、ユトリロのアル中とそのための奇行愚行は一生癒らなかった。ユトリロは大画家の名声を得てからも、何度も留置場や精神病院を出入りした。
一流画家の才能を持ちながら絵の売れない母のシュザンヌは、やがて彼の金をあてにして生来の大浪費家の行状をいかんなく発揮しはじめた。のみならず、同時にまた生来の無道徳家であったシュザンヌは、44歳で、息子のモーリスよりなお若い美貌の画家アンドレ・ユッテルと同棲し、のちには結婚するに至った。
ユッテルは画家をやめ、生活的に八方敗れのシュザンヌ、ユトリロ母子の保護者になる道をえらんだが、同時に彼もまたユトリロの絵による莫大な収入を浪費し、かつアル中となった。
この常軌を逸した3人の悲喜劇的な同棲生活は、ユトリロをも画家たるより金貨製造機に変えた。彼は鉄格子のはまった部屋にいれられ、半強制的に絵を描かされた。彼のおびたたしい作品には愚作も少なからず、ことに後半生のものにそれが多いのは、この生活と彼のアル中の昂進によるものである。
母が脳溢血で死ぬ前年、54歳でユトリロはやっと結婚した。相手は65歳の未亡人だった。そして彼女もまたユトリロが大画家であるということだけの虚栄心から結婚した女性で、ユトリロはまたも石臼につながれた盲目のロバのような夫の位置に置かれた。
1955年秋、72歳のユトリロは、この妻とともに大西洋岸のダックスに保養にいったが、ここで風邪をひき、11月5日正午過ぎ、突然喀血して息をひきとった。

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