じじぃの「人の死にざま_272_吉田・茂」

吉田茂 - あのひと検索 SPYSEE
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昭和宰相列伝4 吉田茂他(1945-1954) 動画 video
http://www.youtube.com/watch?v=DDEuMQXJG6E
5-6【吉田 茂 日本国憲法麻生太郎の祖父「日本独立」 その光と影 動画 Youtube
http://www.youtube.com/watch?v=utc-UlYX_Lc
吉田茂 ウィキペディアWikipedia)より
吉田茂は、日本の外交官、政治家。第45代・第48代・第49代・第50代・第51代内閣総理大臣(在任期間・1946年5月22日 - 1947年5月24日、1948年10月15日 - 1954年12月10日)。
外務大臣衆議院議員(当選7回)。貴族院議員(勅選)。従一位大勲位皇學館大学総長、二松學舍大学舎長。
優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、戦後日本の礎を築いた。ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれた。
【生い立ち】
1878年明治11年)9月22日、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士竹内綱の5男として東京神田駿河台(のち東京都千代田区)に生まれる。
内閣総理大臣就任】
終戦後の1945年(昭和20年)9月、東久邇宮内閣の外務大臣に就任。11月、幣原内閣の外務大臣に就任。12月、貴族院議員に勅選される。翌1946年(昭和21年)5月、自由党総裁鳩山一郎公職追放にともなう後任総裁への就任を受諾。内閣総理大臣に就任した(第1次吉田内閣)。大日本帝国憲法下の天皇組閣大命による最後の首相であり、選挙を経ていない非衆議院議員貴族院議員なので国会議員ではあった)の首相も吉田が最後である。また、父が公選議員であった世襲政治家が首相になったのも吉田が初めてである。
サンフランシスコ平和条約
サンフランシスコ平和条約に署名する吉田茂主席全権と全権委員団直後の朝鮮戦争勃発により内外で高まった講和促進機運により、1951年(昭和26年)9月8日、サンフランシスコ平和条約を締結。また同日、日米安全保障条約を結んだ。
以後、公職追放解除後の鳩山一郎グループとの抗争やバカヤロー解散、造船疑獄などがあった。造船疑獄では、犬養健法務大臣)を通して、検事総長佐藤栄作(幹事長)の逮捕を延期させた(結局、逮捕はされなかった)。これが戦後唯一の指揮権発動である。当然ながら、新聞等に多大なる批判を浴びせられた。
1954年(昭和29年)12月7日に内閣総辞職。翌日、自由党総裁を辞任。日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ1人である。内閣総理大臣在任期間は2616日。

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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
10月20日吉田茂 (政治家)
戦後2人目の首相。後の佐藤栄作と共に長期政権を誇った首相として知られる。
良くも悪くも首相らしい貫禄を身につけた人だった。
ワンマン宰相と呼ばれた。その有名なエピソードこそ1953年2月28日に起きた"バカヤロー解散"だった。
衆議員の予算委員会で烈しく詰め寄る社会党西村栄一議員に「無礼者、バカヤローッ」と一喝したのである。これがきっかけとなり吉田内閣不信任が出され、可決する運びになったのだ。
敗戦の焼け跡から復興にむけて、いうなれば一番たいへんな時期の舵取りを任せられたのが吉田だった。長期政権の中、吉田は日本丸の復活という航路を見事に航海してみせたのではないだろうか。
今日の繁栄日本に道をつけてくれた吉田茂に感謝の気持ちで献杯したい日である。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
吉田茂 (1878-1967) 89歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和21年5月16日、吉田茂が第一次吉田内閣の大命を受けた日、マーク・ゲインはその『ニッポン日記』に書いている。
「今から50年後の、いやおそらくもっと近い将来の国家主義日本は、吉田を、(中略)異国の征服者の意志をたばかり、旧日本の体制を根本的に変革するその命令をサボタージュし、封建的体系の保持に巧妙にたたかった人として、感謝の念をもって追懐するであろう」
まさしくその通り、この日本人には稀有(けう)なほどの剛腹で陽性の政治家は「敗けたなら、敗けっぷりをよくしよう」といいながら、老妓のごとくマッカーサーをあやなして、その「虎の威」を利用して逆に日本再興の基を作った。
しかし五次にわたる吉田内閣において、彼ほど新聞から極端な毀誉褒貶(きよほうへん)を受けた総理大臣はいない。「ワンマン」「白足袋首相」はては「吉田清盛入道」とまで呼ばれたが、この傲慢な、わがままな、戦後ただ一人の「貴族」は、あわせ持つ楽天性とユーモアを失わぬ個性で、ふしぎに大衆から敬意を失わなかった。
昭和29年ついに足かけ9年にわたる吉田政権の命脈はつき、38年には政界から引退したが、政権は依然として愛弟子たる池田隼人、佐藤栄作によってつがれ、彼はみずから「海千山千楼(うみせんやませんろう)」と称する広壮な大磯の別邸で、鼻めがねに葉巻をくゆらし、悠々たる晩年を送った。そのころ天皇が、「吉田は顔色がよくて結構だね」といったのに対して、「吉田は人を喰って生きておりますので」としゃあしゃあと答えて、天皇を破顔させた。
実際に彼は、ビフテキや鰻(うなぎ)をベーコンで巻いてバターで焼いたようなあぶらっこいものが好きで、「私は4000年生きるよ」といって、客をケムに巻いていた。
しかし、壮健な彼も、昭和42年8月末、ついに心筋梗塞の発作に襲われる日が来たが、甥にあたる日本医師会会長武見太郎が駈けつけると、「御臨終に間にあいましたね」とからかう諧謔(かいぎゃく)を忘れなかった。
以来健康はやや衰え、9月22日、89回の誕生祝いで食べたバースデイ・ケーキを吐いてからとみに体調悪化して太平洋と富士山が見える「海千山千楼」の2階でウツラウツラと過ごしたが、10月19日ふと「富士が見たい」といって障子をあけさせ、ベットの上に抱き起こされて、晴天にそびえ立つ美しい夕ぐれの富士山をあかず眺めいった。
翌10月20日は朝から平穏で、主治医の佐藤陽一郎医師が診察をおえ、辞去した直後午前11時50分、「ちょっと気分が悪い」といって、2つ3つ呼吸し、そのまますうっと眠るがごとき大往生をとげた。枕頭には、彼の後半生献身の権化のごとく仕えた「小りん」と看護婦がいただけであった。
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当時東南アジア歴訪中であった愛弟子の佐藤栄作首相は急遽飛びかえって、戦後はじめてにしてかつ絶後と思われる国葬をとり行った。
結局、大敗戦戦後の宰相としての吉田茂という個性の存在は−−真珠湾で米太平洋艦隊が潰滅したあと、軍事史家のサミュエル・モリソンが、ハワイの工廠(こうしょう)と石油タンクと空母が無償であったことに「神はアメリカの誇りを辱(はずか)めるように定めたけれど、しかし運命はアメリカ海軍が完全に破壊されないように注意を払ってくれた」と感謝したのと同様の意味で−−吉田茂を日本に残しておいてくれたと認めざるを得ない。

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