じじぃの「活字メディアの崩壊!新聞が消える」

「伝統メディアもデジタルへの移行を」 米「ニューヨーカー」記者、ケン・オーレッタ氏 (追加) 2010.5.27 MSN産経ニュース
米ネット検索大手「グーグル」の実態をまとめ、昨年、米国でベストセラーを記録した『グーグル秘録 完全なる破壊』(文芸春秋)の著者で米誌「ニューヨーカー」記者のケン・オーレッタ氏(68)が翻訳出版に合わせて来日、産経新聞のインタビューに応じた。同氏はグーグルらの台頭で大きな打撃を受けた新聞など伝統メディアのあり方について、「事業を再定義し、デジタルプラットホーム(土台)にどう移行させるかを考えるべきだ」と語った。
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グーグルは莫大な広告収入を背景に、各種コンテンツの無料サービスで躍進した。ネットの情報は無料という意識が広まり、伝統メディアを圧迫しているが、オーレッタ氏は「無料配布はジャーナリズムを陳腐にさせる。コンテンツの課金制度を考えることが非常に重要だ」と強調する。
http://sankei.jp.msn.com/economy/business/100527/biz1005271822034-n1.htm
米新聞各社、発行部数がさらに減少 2010年4月27日 The Wall Street Journal, Japan Online Edition
2010年3月までの6ヵ月間の米国の新聞の発行部数は、多くの新聞で減少した。広告収入低迷の長期化や電子版との競争によって生じた業界の問題が深刻化している。
新聞・雑誌の実売部数を調査する第三者機関、米新聞雑誌部数公査機構(ABC)が26日発表したところによると、3月までの6ヵ月間の米国の日刊紙602紙の平日の平均発行部数は、前年同期から8.7%減少した。発行部数は昨年4〜9月に11%減を記録していた。また昨年3月までの6ヵ月は7.1%減だった。
この数字は米国の多くの新聞を調査対象にして出したものだが、すべてを対象にしているわけではない。発行部数でトップ25に入る新聞のうち、約10紙の発行部数が10%以上減少した。
新聞の発行部数は数十年にわたって徐々に減少してきたが、ウェブ、スマートフォン、それにアップルの多機能端末「iPadアイパッド)」などのデジタルメディアを使用する読者が増えてきたため、最近減少ペースが加速している。新聞社の中には発行部数を大幅に削減したり、一部の印刷をやめたり、電子版に移行したりしているところもある。
発行部数の多い新聞の中で部数が最も落ち込んだのは、ハーストの所有するサンフランシスコ・クロニクルで、23%減少した。AHビーロの所有するダラス・モーニング・ニューズは21%減少した。
この発表は、ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)が、平日の発行部数で首位を保ったことを示している。WSJの発行部数は0.5%増の209万部だった。WSJの発行部数は昨年、ガネットの「USAトゥデー」を抜いた。
WSJは電子版の売り上げから恩恵を受けた。多くの他社は紙面広告収入の減少を補うため、電子版の有料化について検討している。
ニューズ・コーポレーションWSJとニューヨーク・ポストを所有している。
USAトゥデーの平均発行部数は14%減の180万部だった。同紙は10年にわたって発行部数首位を保っていたが、出張が減り、同紙の強みであったホテル向けの販売が減ったことが響いた。
発行部数第3位はニューヨーク・タイムズで、8.5%減の95万1063部だった。
WSJは、ニューヨークの地域の話題に特化したセクションを設けることで、NYタイムズの本拠地での直接対決に力を入れている。
http://jp.wsj.com/Business-Companies/node_55317
新聞が消える ジャーナリズムは生き残れるか アレックス S. ジョーンズ/著 古賀林幸/訳 朝日新聞出版 2010年発行
ニュー・ニュース・メヂィア (一部抜粋しています)
今日の新しいニュースメディアに対する不安についても、一部の人たちはほぼ同じような目で見ている。カリフォルニア大学サンディエゴ校の政治学教授サミュエル・ポプキンは、硬派のニュースがドラマや人間的興味をそそるものにかわることに対する従来のメディアによる抵抗を「文化的保護主義」と呼び、大衆が軽いニュースを好むことを考えれば、かってのハントリーやブリンクリーのくだけたスタイルに反対する声と同じく、無益なものと見なす。もちろん、いま生まれつつあるのは、伝え方も見方も従来とは異なる新しいスタイルのニュースなので、従来のメディアは文字通り、適応できなければ死ぬしかない。まだ明らかになっていないのは、ジャーナリズムの中核にある価値が、この新しい世界で生き残るかどうかである。そして、そうした価値が本当に生き残る必要があるのかどうか、またこれまでのニュースなくして、情報に通じた市民により強化される活力ある民主主義が存続するのかどうかも、おそらく明らかでない。「いったい何が、古い基準の長所を自明の理とするあまり、それ以外のことをほとんど考慮の余地なしとして無視させるのか?」とポプキン教授は問う。「なかには、硬派のニュースから得られなかったほど多くのことを、軽いニュースから学んでいる人たちもいるのだ」と、彼は多かれ少なかれ硬派のニュースに関心のない人々に言及する。わたしはどんな形態やスタイルのニュースからも学べることには同意するが、鉄心である硬派のニュースの衰退は望ましいことではないと信じる。その観点から新しいニュースメディアを眺めると、他のあらゆるニュースの重要な基盤だと考えるタイプのニュースがどんどん出番を失い、わきに押しやられている旧エリート層の最後のあえぎとして扱われるようになっていると思う。一部には、それは避けられないと同時に、市民の好みではなく自らの基準と伝統にもとづきニュースを判断するものだと考えてきたジャーナリズムへの、遅ればせながら当然の報いだとして、喝采を送る者がいる。新しいニュースメディアの世界では、膨大な数の、きまぐれな、社会的な力をつけた、テクノロジーに精通し、メディアにどん欲な読者が、ニュースの今後を決めるだろう。そしてそれがどこへ向かうのかは、誰にも分からない。
ウェブ上のすぐれたジャーナリズムは、実に驚異的である。ウェブが提供するありとあらゆる手段−−言葉、音声、ビデオ、リング、無尽蔵のデータ、検索、画像、双方向性−−を駆使して、それは酔わせるほどの興奮をかき立てられる想像力あふれたジャーナリスティックな思考を生み出してきた。ジャーナリズムが基本的にストーリーを語るものであるなら、いまやその全財力は、限られた色しかない古いクレヨン箱をつまらないものに見せる超豪華なクレヨン箱を与えられた子どものようなものである。すぐれた「新しい」ジャーナリズムは、ニュースを旧来のどの形態のメディアにも不可能だった水準にまでもっていく。
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グーグルのような検索エンジンやヤフー、AOLのようなウェブのポータル・サイトは、どこもみなニュースを提供しているが、独自のニュースははほとんどない。それらのニュースはいわゆる「ただ乗り」で、新聞その他の伝統的なメディアが報道した一連のニュースを読者に提供するという便宜をはかられている。とはいえ、元の報道機関は、自社サイトへの継続的な訪問がないか、たとえあってもごくわずかである。急成長してきたグーグル・ニュースの場合、閲覧者がトピックを入力してニュースを検索すると、数十件から、場合によっては数百件の関連項目が出てくる。閲覧者はそのなかから、もともとの新聞の忠実な読者になるとは考えにくい。それどころか、忠誠心はむしろグーグル・ニュースに向かうだろう。だからこそグーグルは、その膨大な訪問者数を基盤にして莫大な量の広告スペースを売る。言い換えれば、記事をつくるのは新聞なのに、そのニュース記事から金を稼ぐのはグーグルなのである。
「ただ乗り」シンドロームは、ニュースと公共の事柄を中心に急成長しているブログ世界の中核にもある。そうしたブログの論評は、ほとんど全てが伝統的なメディアの報道にもとづいているからである。ブログ世界を追跡しているテクノラティというウェブサイトは、毎日12万の新しいブログが開設され、いまや7000万を超えるブログがウェブ上にあふれていると見積もっている。何らかのかたちで公共の問題に焦点をあてている数百万のブログのうち、大半はいわゆる「ロングテール」と呼ばれるほとんど、あるいはまったくアクセスがないブログである。しかし何人かのブロガーは、公的議論の形式において、大きな影響力のある論説コラムニストと同じくらい、強い影響力をもつようになっている。ブログという現象は1997年ごろからはじまり、自分の考えを遠慮なくずけずけ書けることを気に入った何人かのブロガーが、それを自分のウェブサイトに掲載するようになった。そして運がよければ、ほかのサイトへのリンクを通して、さらにそこから別のサイトへつながるというかたちで、瞬くまにその記事が全世界をかけ巡った。リンクを通して情報がウイルスのように拡散していくのは、ウェブの最大の威力の一つであり、それがイラクでの拷問からハリー・ポッター最終巻の発売前の秘密の結末まで、あらゆることが世界中に明らかにされる事態を招いてきた。
ブログ世界には、ブログをもっている人全員が含まれる。ブログは、個人の見解が表明されたウェブ上の単なるサイトにすぎない。なかにはそうした個人の意見に対して、訪問者が自分の反応を示すことができるところもあり、一部の人はそれを書き込む。しかしニュースにとって重要なのは、ブロガーの中核をなす人たちが政治や社会問題といった公的分野をあらゆる角度から熱心に取り上げ、そうした発言がいまや多数の人々に詠まれていることである。こうしたブロガーは最善の場合、従来のメディアに対していわば真実を追求する特捜班のような働きをし、重要なストーリーを見逃しているとか、何かが間違っているとかと、激しく非難する。彼らの多くは自分たちを、客観的ジャーナリズムの時代以前に栄えた18世紀、19世紀のきわめて党派心が強く、面白いほど不遜なパンフレット作成者と同じように考えている。彼らは一般に、自分たちがどんなかたちであれ伝統的なジャーナリズムと見なされるのを潔しとせず、自分の仕事を、編集長に介入されず、主流のジャーナリズムの伝統にも縛られない率直さの息吹ととらえている。このブログ・コミュニティは、訪れるには刺激的な場所であると同時に、醜悪なところでもあり、節操のない悪意ある侮辱的な記事が、残酷さをむき出しにしていることもある。しかしブログは、何が起きているか、誰が誰についてどう言っているかを知るために人々が訪れる場所になっており、強固な民主主義に必要な開かれた会話に、ウェブが追加した重要な要素の一つである。
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アグリゲーターやポータブル・サイトは、ウェブ訪問者の数において、最大のニュース機関のウェブサイトでさえ比較にならないほど、抜きんでている。つまり、「ただ乗り」サイトが、自らつくり出してはいないコンテンツを用いて絶大なるウェブ広告の力を築き上げる一方、コンテンツの元来のつくり手は苦戦しているわけである。グーグルやヤフーその他のポータブル・サイトは、全米の調査で信頼できるニュース源として名前が挙がるようになってきてはいるが、実際には自らがつくっていないニュースを流通させる仲介者にすぎない。同様に、巧みなソフトウェアを用いてウェブを検索し、何かのトピックに関するウェブ上のあらゆるニュースを1ヵ所に集めることに特化したいくつかのアグリゲーターが登場し、その利用者は−−グーグルニュースように−−元の記事を呼びだして閲覧したあと、そこから去ってアグリゲーターのサイトへ戻ることができる。そのようなサイトは、信じがたいほどの成功を収めてきた。たとえば、ディグ(digg.com)という、閲覧者がさまざまな項目にコメントをくわえたランク付けしたりできるサイトは、2006年4月に200万以下だったユニーク・ビジターが、以後毎年、倍々ゲームで増え続けている。また他の同様なパラサイト・サイトもディグに勝るとも劣らない成功を収めている。
ウェブ次代の重要な思考の一つに、「市民ジャーナリズム」の台頭にある。これはどんな個人もジャーナリズム世界の一員にするウェブの力から生まれてきた考え方である。その基本的概念は、ジャーナリズムらしく見える何かをつくり、それをウェブページに掲載することで、誰でもジャーナリズムや出版人になれるというものだ。市民ジャーナリズムは、イラクから兵士が書き込みをしたり、ニューオリンズでハリケーンカトリーナの被害にあった人が、身をもって体験したそのすさまじい破壊力について書き込んだり、あるいはその場で撮った写真を掲載したりといったかたちで、行われる。ツイッターは現在、非常に短い書き込み−−つまり、つぶやき(ツイッター)−−で情報を伝えることができるという点で、一つのニュース媒体であるが、あまり多くの情報は伝えられない。ジャーナリズムではない、特定分野の専門知識をもった人が、その知識を反映した何かをニュース・サイトに書きこむのは、市民ジャーナリズムである。ジャーナリストでない人が水道委員会の会議に出向き、そこで何があったかを地元の新聞に投稿するのも、市民ジャーナリズムである。そしてそのような市民ジャーナリズムは、しだいに新聞や他の従来のメディアのニュース・サイトに、読者がつくる「コンテンツ」の一部として組み込まれ、報道機関のウェブサイトに掲載される重要な部分になりつつある。愕然とすることに、そうした素材は、報道のプロがつくるものよりも信頼性が高く、読者の関心も高い場合が多い。わたしのいらだちは、市民ジャーナリストに対する軽蔑というより、報道のプロたる者が面白く、読みやすく、信頼も高いものをつくる方法を往々にして見いだせないという残念な事実からきている。
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従来存続してきたかたちでのジャーナリズムという専門職そのものが、いまや過去のものになりつつあり、これからは主義主張と広報活動と個々人の意見の組み合わせに置き換わるのではないか、そして人々が何でも好き勝手なことを、しかも面白おかしく言う自由が、この分野に人をひきつけることになるのではないかと、懸念する人たちもいる。それがもしニュースの主要な形態になるとしたら、その結果としてアメリカ人はいまよりも不幸になるだろう。
新しいニュースメディアのこうした否定的な側面を埋め合わせるのが、関心の高い市民から寄せられるすぐれた知識を投入し、鉄心のニュースがその機能を果たすために必要な信頼のきずなを回復し、新しいモデルが技術の利点を活用することで急成長するウェブの想像力を生かし、これまで欠かすことができなかった価値を維持するという希望である。硬派のジャーナリズムが、ファンに支えられた音楽グループのように、独立の契約者としてその仕事を続けられるかもしれない可能性もある。音楽ビジネスは、毎日10ドルを進んで払ってミュージシャンを支援する「1000人の真のファン」さえいれば成り立つという考えを生んだ。だから将来の質の高いジャーナリズムは、同じような手法でうまくいくかもしれないという見方もある。記者のなかには、すでにこの困難のともなう分野に乗り出すために寄付をつのろうとしている者もいるが、長期的にこれが有効かどうかは、今後を見てみなければ分からない。
しかし結局のところ、鉄心のニュース救済は、「どうやってその資金をまかなうか」という難問に対する解答いかんにかかっている。

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『VOICE』 6月号 2010年5月10日発売  PHP研究所
電子書籍が日本文化を破壊する日」 岸博幸 (一部抜粋しています)
インターネットの急激な普及にともない、世界中でマスメディアやコンテンツ企業の収益が継続的に悪化している。その理由の一つは、コンテンツの流通経路の中心が電波、紙、CDといった従来の媒体からインターネットにシフトしたことによる。
電波、紙、CDなどが流通の中心だった時代は、それらの媒体を支配するマスメディアやコンテンツ企業が流通を独占し、独占によって生じる超過利潤を獲得していた。しかし、インターネットが流通の中心となり、その超過利潤がネット企業にシフトしてしまったのである。
もう一つは、ネット上で無料モデル(無料でコンテンツを提供し広告収入で対価を得る)と違法コピー/ダウンロードが蔓延したことである。いまやユーザーにとってネット上のコンテンツはタダで当たり前となってしまった。
その結果、インターネットで大きな収益を上げているのはネット企業だけである。マスメディアやコンテンツ企業にとってインターネットはまだ儲からないのである。音楽業界を例にとれば、日本でのCD売上はこの10年で6000億円から3000億円へと半減したが、その間に成長したネット配信の規模は900億円にすぎない。
そして、マスメディアやコンテンツ企業の収益が悪化したことで、世界中で文化やジャーナリズムという社会のインフラが衰退しつつある。これまでは、マスメディアやコンテンツ企業が流通独占にともなう超過利潤を自社内でのコンテンツ政策に還流することで文化やジャーナリズムが維持されてきた。しかし、流通独占がネット企業にシフトしたことで、そのメカニズムが崩壊してしまったのである。
もっとも早くインターネットの影響を受けた音楽文化で、それは顕著である。たとえば、2009年のスペインの音楽市場では、アルバム売上げの上位50位にスペインのアーティストが一人も入っていなかった。スペインの音楽文化は崩壊したと言わざるをえない。
出版社が電子書籍への対応を間違えたら、同じように活字文化も衰退・崩壊しかねないのではないだろうか。長きにわたる出版不況で活字文化も衰退を始めているが、電子書籍がダメ押しとなりかねない。

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どうでもいい、じじぃの日記。
先日、東金図書館から、『新聞が消える ジャーナリズムは生き残れるか』を借りてきた。
この本を一通り読んだ。
この本のなかにやたらと「ただ乗り」というのが出てくる。
アグリゲーターやポータブル・サイトは、ウェブ訪問者の数において、最大のニュース機関のウェブサイトでさえ比較にならないほど、抜きんでている。つまり、「ただ乗り」サイトが、自らつくり出してはいないコンテンツを用いて絶大なるウェブ広告の力を築き上げる一方、コンテンツの元来のつくり手は苦戦しているわけである。グーグルやヤフーその他のポータブル・サイトは、全米の調査で信頼できるニュース源として名前が挙がるようになってきてはいるが、実際には自らがつくっていないニュースを流通させる仲介者にすぎない。
この本を読んで、中川淳一郎氏の『ウェブはバカと暇人のもの』という本を思い出した。
この『ウェブはバカと暇人のもの』に、こんなことが書かれていた。
「年収が高く、リアルな世界で忙しい人たちも当然ネットを使いこなすが、それはあくまで情報収集のためである。暇つぶしではなく、明確な目的があるのだ。 暇な人たちがせっせと構築してくれた情報を、効率よいグーグル検索と数回のクリック、そしてコピー&ペーストであらよっと入手し、それを説得材料や補強材料のひとつとして企画書などに反映させる。『最近できた○○ショッピングセンターの評判はですねえ、たとえばですねえ・・・・』などとプレゼンをして、社内のプロジェクトを推進したり、クライアントからお金を引き出したりするわけだ。 あと、重要な情報を持っている人は、その情報をわざわざネットに書かない。 『なんで、客の前で話せばカネになることをわざわざネットで公開しなきゃならないんだよ』『つーか、書いている暇があったら寝たいから』というのが理由だが、当然である。 リアル世界で活躍している人は、リアルな世界の会話や体験から貴重な情報や出会いを手に入れ、開いた時間にネットでササッと情報収集をして、それらを総合してカネを稼げるようになったのだ」
言ってみれば「暇な人たちがせっせと構築してくれた情報」は新聞社であり、「あらよっとコピー&ペーストで入手し」はグーグルやヤフーなのである。
情報の仲介者にすぎないネット企業がもうけて、情報の発信の担い手である新聞社が瀕死の病人扱いされているのである。
グーグルやヤフーの人たちはこのような瀕死の病人である新聞社をどう思っているのだろう。
使えるだけ使って、死んだ時はその時考えればいいとでも思っているのであろうか。
肥大増殖し続けるがん細胞。いくら肥大増殖し続けても、病人が死んだら、がん細胞もまた死ぬ運命にあるのだ。
硬派のジャーナリズムが、ファンに支えられた音楽グループのように、独立の契約者としてその仕事を続けられるかもしれない可能性もある。音楽ビジネスは、毎日10ドルを進んで払ってミュージシャンを支援する「1000人の真のファン」さえいれば成り立つという考えを生んだ。だから将来の質の高いジャーナリズムは、同じような手法でうまくいくかもしれないという見方もある。
グーグルやヤフーは情報の担い手である新聞社に対して利益の10%ぐらい、還元すべきなのではないだろうか。
『VOICE』6月号の「電子書籍が日本文化を破壊する日」にも同様な記事が載っていた。