じじぃの「人の死にざま_908_村上・貞一」

書評ー「新忘れられた日本人 広告屋日乗
こんにゃくジャーナリストー村上貞一
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テキスト:『新忘れられた日本人』(佐野眞一毎日新聞社 耳学問の盛池塾
http://seikeyuho.seesaa.net/article/231724667.html
『新忘れられた日本人』 佐野眞一/著 毎日新聞社 2009年発行
大新聞から業界紙へ――村上の遍歴 (一部抜粋しています)
昭和23(1948)年7月の創刊から40年間、たったひとりで「蒟蒻(こんにゃく)新聞」を出しつづけてきた元「報知新聞」記者の村上貞一の話をしよう。
大正天皇崩御から昭和11(1936)年の2.26事件まで、村上は整理部に所属し、その後、また元の政治部に戻された。そして昭和12年10月、北京支局長に抜擢された。
ちなみに村上の1年先輩には、のちに「読売新聞」の名誉会長となる務台光雄がいた。ほかにも、松村謙三、御手洗辰雄、保利茂といった錚々(そうそう)たる政治家やジャーナリストが、ここから輩出した。
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戦後、日本の新聞界を支配したGHQは、新聞の民主化政策にのっとって、昭和16年12月の太平洋戦争開戦当時、1万部以上の発行部数をもつ新聞の編集局長以上をパージの対象とした。小新聞とはいえ「太原新聞」の編集局長という要職にあったため、村上もパージの対象となったのである。
仮に村上が「報知新聞」の北京支局長から、本社の論説委員に転じていれば、パージを免れたことはもちろん、一流紙OBとして悠々自適の老後を送ることも可能だったろう。
パージを受け、ジャーナリズムの世界から締め出しを食った村上が、「蒟蒻新聞」を旗揚げすることになったのは、旧知の友人とバッタリ顔を合わせた奇縁による。この友人は当時、全国蒟蒻親和会というコンニャク団体の専務理事のポストにあった。
その友人は「コンニャクの相場が安定しないで手を焼いている。原因のひとつは情報不足だ。長年の新聞記者の経験を生かして、うちの協会報の編集を引き受けてくれまいか」と言って、村上を口説いた。
当時、村上は中学1年生の長男を頭に3人の子どもを抱える身だった。「報知新聞」の北京支局長を経験した村上は、「蒟蒻新聞」編集長への転身には抵抗を覚えたが、背に腹はかえられなかった。ときに昭和23年7月25日、「蒟蒻新聞」が創刊され、ここに世界にも類を見ない蒟蒻ジャーナリズムが呱々(ここ)の声をあげるのである。
創刊当時の発行部数は約千部。購読料は年間で240円だった。いまとは物価の桁が違うとはいえ、とてもそれだけでは生活できる収入ではなかった。昼は毛皮や瓦(かわら)、文房具など各種業界紙の紙面整理のアルバイトに出かけ、余った時間をコンニャク業界の取材、執筆活動にあてた。
村上には、コンニャクの歴史から説き起こし、栽培法、製粉法、さらには料理法にまでふれた『蒟蒻宝典』をはじめとする数々の労作がある。なかでも出色なのは大正元(1912)年にまでさかのぼってコンニャクの値動きを調査した相場表である。新聞の経済記事等を丹念に渉猟して分析した村上の執念の産物で、この業界ではバイブルとさえ呼ばれている。
村上は私が会ったとき、88歳になっていたが、当時もまだ、コンニャクの原料となる生玉(なまだま)産地を訪ねて全国を行脚していた。「蒟蒻新聞」の一面には、豊富な取材経験に裏打ちされた市況予測が毎号掲載されており、これによってコンニャク粉の値段が左右されるともいわれていた。
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私は「蒟蒻新聞」のルポ記事を、村上に敬意を表してこう書いた。
<村上貞一が死んだとき、日本の蒟蒻ジャーナリズムは棺を覆うのである>
そのレポートや、金融業界誌、ウナギ業界紙、葬式業界紙などを収めた『業界紙諸君!』という本を出版してから10年ほど経った頃、見知らぬ読者から突然電話がかかってきた。
「突然の電話、失礼します。実は数日前、私の親父が亡くなりました」
いったい何のことだかわからず、不得要領な返事をしていると、相手は電話かけてきた理由をおもむろに打ち明けた。
「私の親父は村上貞一といいます。死ぬまで『蒟蒻新聞』をつづけていました。もうお忘れかも知れませんが、親父はあなたが取材して書かれたた『業界紙諸君!』をどこに行くにも肌身はなさず持ち歩いていました。失礼とは思いましたが、昨日、その本を親父の遺品と一緒に荼毘(だび)に付させていたふだきました。親父もあの世できっと喜んでくれていると思います」
それを聞いて、やっと納得がいった。電話をかけてきたのは、村上が家族を路頭に迷わせてはならないと、プライドを捨てて「蒟蒻新聞」を創刊したとき、まだ中学生だったという村上の長男だった。
私は感動した。そしてあらためて思った。日本の蒟蒻ジャーナリズムは、村上の死とともに、文字通り棺を覆ったのである。