じじぃの「人の死にざま_1554_ジョーゼフ・ピューリツァー(新聞出版者)」

ピューリッツァー賞受賞作品集 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=3ph_IYpMpbc
崩れ落ちる兵士 写真

ジョーゼフ・ピューリツァー コトバンク より
ジョーゼフ・ピューリツァー(Joseph Pulitzer, 1847年4月10日 - 1911年10月29日)は、新聞出版者およびジャーナリスト、元アメリカ合衆国連邦下院議員。
ピューリツァー賞は彼にちなんで設立された(名前は実際には"Pull it, sir."(プリツァー)のように発音されるべきであるとされる。自身の発音はこうであった)。

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『知られざる世界史 あの人の「幕引き」』 歴史の謎研究会/編 青春文庫 2005年発行
ピューリツァー (一部抜粋しています)
ピューリツァーの経営する『ニューヨーク・ワールド紙』は、社会問題をセンセーショナルに取り上げたり、暴露やゴシップを盛り込んだりして、新聞の読者層を社会の底辺にまで拡げ発行部数を伸ばしたが、過度のセンセーショナリズムを嫌う知識層からは非難を浴びた。
非難をものともせず、がむしゃらに働きつづけたピューリツァーだが、1890年のある日、一大転機が訪れる。突然、視力が急速に衰えて文字が一行も読めないほどになったのだ。
医者に診てもらうと、働きすぎて体を酷使しすぎたのが原因なので、休養をとることと、新聞を離れることが必要だといわれた。
忠告どおり、ピューリツァーは妻を連れて旅行にでたが、転地療養はあまり成功とはいえなかった。視力がいくらか戻ったかわり、鋭い音に神経を逆撫でされるようになったのだ。
旅行から帰って会社にいくと、印刷機の騒音や人の話し声、ペンで記事を書く音など、愛着があったはずの社内の物音が耐えがたい。そのため、彼はなるべく会社に近づかないようにしなければならなかった。
そこでピューリツァーは、専用船に乗って船旅をつづけながら、毎日電報でワールド社に指令を送るという生活に入った。それからまもなく、あたりが急に暗くなったと感じ、医者に診てもらったところ、一方の目の網膜が完全に離れてしまい、回復の見込みはあるまいと診断された。
どうやら、視力をなくしたことと生活の転換は、ピューリツァーの新聞に対する考え方まで変えてしまったらしい。
かつては、イエロージャーナリズムという言葉を生んだほどセンセーショナルな路線を突き進んでいたのだが、1890年に引退の告示を出したのだ。
気持ちまで世捨て人となったピューリツァーは、船上生活を送りつづけ、1911年10月29日、サウスカロライナ州チャールストンの沖合の船上で死亡した。
生前の1903年コロンビア大学に多額の寄付がなされ、死後の翌年、ジャーナリズム科が創設された。さらに1917年、同大学は「ピューリツァー賞」を設けた。