じじぃの「人の死にざま_267_与謝野・晶子」

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与謝野晶子 - 君死にたまふことなかれ 動画 YouTube
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堺市立文化館 与謝野晶子文芸館 堺市文化振興財団
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与謝野晶子 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
与謝野晶子は、戦前日本の歌人、作家、思想家。
大阪府堺市(現在の堺区)出身。旧姓は鳳(ほう)。戸籍名は「志よう」。ペンネームの「晶子」の「晶」はこの「しよう」から取った。夫は与謝野鉄幹(与謝野寛)。
【作家・歌人
情熱的な作品が多いと評される歌集『みだれ髪』明治34年(1901年)や日露戦争の時に歌った『君死にたまふことなかれ』が有名。『源氏物語』の現代語訳でも知られる。
歌集『みだれ髪』では、女性が自我や性愛を表現するなど考えられなかった時代に女性の官能をおおらかに詠い、浪漫派歌人としてのスタイルを確立。伝統的歌壇から反発を受けたが、世間の耳目を集めて熱狂的支持を受け、歌壇に多大な影響を及ぼすこととなった。所収の短歌にちなみ「やは肌の晶子」と呼ばれた。
明治37年(1904年)9月、半年前に召集され旅順攻囲戦に加わっていた弟を嘆いて『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表。その三連目で「すめらみことは戦いに おおみずからは出でまさね(天皇は戦争に自ら出かけられない)」と唱い、晶子と親交の深い歌人であったが国粋主義者であった文芸批評家の大町桂月はこれに対して「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしといふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判した。

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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
5月29日−与謝野晶子 (歌人
日本短歌史上、有数の歌人である。その歌のすばらしさもさることながら、いろいろと抑圧のあった時代に女ながら自らの信念を貫いたその生きざまにおいても日本女性の誇りともいえる女性だったと思う。
『明星』の創始者たる与謝野鉄幹は妻子持ちの男だったが晶子は熱い恋の炎を燃やし、鉄幹の胸に飛び込んでゆく。現代ならさしずめ不倫である。
更には本妻滝野をはさんで恋敵の山川登美子との"四角関係"になっても恋の戦いに勝とうとした。
女は両親のすすめる相手と結婚すればいいと説いた貝原益軒の"女大学"に正面切って抗うようなこの生き方に嵐のような批判が向けられたのは想像するに難くない。
また、実弟が戦場へ出向いた際にも"君死に給うことなかれ"と歌を詠んだことで"反戦歌人"と非難されたこともあった。
しかし、男を愛し子を愛し、弟を愛して何が悪いというのだろうか。愛に生きる女は美しい!

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店 1986年発行
与謝野晶子 (1878-1942) 63歳で死亡。
「妻をめとらば才たけて
 顔(みめ)うるはしく情けある・・・・」
と、夫鉄幹が歌った通りの与謝野晶子であったが、その鉄幹との間に彼女は11人もの子を生んだ。
「堺の街のあきびとの、旧家をほこる」家から走って身を投げこんだ鉄幹との結婚生活の間、洗うような貧乏のし通しであった彼女は、昭和10年に夫を肺炎で失ってから後も、たくさんの息子や娘たちを結婚させるのに心労のし通しであった。
その間も、晶子はおびただしい歌を作り、いわゆる与謝野源氏その他の著作を書き、若き日、鴎外がたたえた「晶子曼荼羅(まんだら)」の盛名を落とさなかった。
人は貧しくとも絢爛(けんらん)たる生涯を持つことのできる見本である。
が、このたおやかで偉大な女性も、それゆえに世の常の女性よりも燃えつきる日が早く来た。昭和15年5月6日、杉並区荻窪の自宅の風呂場で脳溢血を起こしてたおれたのが、62歳のときである。
以来彼女は左半身不随となり、静養につとめたが病状はとみには回復しなかった。
そして昭和17年の新年早々狭心症の症状も現われ、全身の機能衰え、5月18日尿毒症を併発して意識不明となり、同月29日午後4時30分息をひきとった。
明治37年、晶子が26歳のとき「君死にたまふことなかれ、旅順の域はほろぶとも、ほろびずとても、何事ぞ」と歌ったときから40年近く・・・・彼女が死んだ日は、ミッドウェーに向かって日本の主力艦隊が出撃した日であった。
死せる晶子は美しく化粧され、彼女の好んだ紫の縞模様を着せられて棺に横たえられた。葬儀に参列した堀口大学は挽歌を捧げた。
「紫のゆかりの色の衣(きぬ)かつぎ
 ねむりておはす少女のように」

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