じじぃの「人の死にざま_257_三波・伸介」

三波伸介 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E4%B8%89%E6%B3%A2%E4%BC%B8%E4%BB%8B/6769/
笑点オープニング三波伸介 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=n8kAfMgiPzo
三波伸介凸凹大学校エスチャー ずうとるび 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=kzGCDyefvjE
三波伸介 geinin.jp
http://www.geinin.jp/prof/minamishinsuke.html
三波伸介 (初代) ウィキペディアWikipedia) より
三波伸介(1930年(昭和5年)6月28日-1982年(昭和57年)12月8日)は、日本のコメディアン・俳優・司会者・タレント。昭和期を代表するテレビスターのひとり。東京府東京市本郷区(現在の文京区)出身。血液型はB型。長男は喜劇役者の2代目三波伸介
当たりギャグは「びっくりしたなあ、もう!」。
【来歴・人物】
日本大学第二高等学校卒業。日本大学芸術学部映画学科中退。
1940年、劇団「東童」に加入し芸能活動を開始。戦後、劇団「たんぽぽ」等経て東洋興業系劇場に進出。大阪劇場にて玉川良一、東けんじとコント「おとぼけガイズ」を結成。
解散後 1961年に伊東四朗(三波が大阪にいた頃、三波伸介という芸名で活躍していた時期があった)、戸塚睦夫と「てんぷくトリオ」を結成(結成当時は「ぐうたらトリオ」のトリオ名だった)。舞台やテレビのバラエティ番組を中心に人気を博す。流行語にもなった三波の当たりギャグ「びっくりしたなぁ、もう」はこの頃生まれた。
1970年に「笑点」の3代目司会者に就任。そのきっかけは、てんぷくトリオとしてゲスト出演した地方収録の回で、飛行機の欠航により出演できなかった前田武彦の代役として司会を務めたこと。当時はまだ司会経験が浅かったものの、元々落語に造詣が深かった事もあり、5代目三遊亭圓楽ら並み居る落語家達を相手に大喜利を取り仕切った。番組自体の人気を上げたことはもちろん、自身がピン芸人としてブレイクするキッカケとなった。
1973年に戸塚が42歳の若さで死去。残った伊東と2人で「てんぷく集団」と改名し活動を続けた。
その後「てんぷく」の活動を抑え、個人でテレビや舞台で喜劇俳優・司会者として活躍。NHKお笑いオンステージ」の「減点パパ(減点ファミリー)」コーナーでは、毎回ゲストの芸能人の似顔絵をゲストの家族の言う通りに描き上げ、自ら「阿佐谷のセザンヌ」と称した。
1982年12月8日、自宅の居間で倒れているのを帰宅した家族らが発見、救急車で病院へ運ばれたが既に意識不明の状態で、解離性大動脈瘤破裂により意識が戻らないまま急逝。夫人に拠れば、三波はよく死んだふりをして狸寝入りをして家族をからかうことがあったため、この時も暫く「死んだふり」をしているのだろう、と思っていたところ、様子がおかしいのに気付いて救急車を呼んだとのことであり、もし勘違いをせず、すぐに救急車を呼んでいたら、三波を死なせずに済んだかもしれない、と夫人は悔やんでいたという。

                                    • -

『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
12月8日−三波伸介 (タレント・52歳)
存在するだけで人を笑わせる。いわゆる天性のコメディアンだった。
昭和40年代初期に旋風のように巻きおこったトリオブーム。トリオザパンチ、ナンセンストリオトリオスカイライン漫画トリオ etc、そんな中でも三波を中心とするてんぷくトリオは際立っていた。
「びっくりしたなあ。もう」の流行語で三波たちはテレビ界の寵児となっていたが、彼は舞台への夢を忘れなかったという。
激流の時代の中、テレビを無視することはできない。NHKでの「お笑いオンステージ」の中で見せた"てんぷく笑劇場"は三波が亡き戸塚睦男に捧げた1つの夢の実現と言えたかもしれない。
三波伸介一座の講演を名古屋で成功させ、いよいよ東京で勝負という矢先に三波はあっという間に逝ってしまった。それこそ、私たちが「びっくりしたなあ。もう」を思わず言ってしまうような死に急ぎ方だった。
盟友・伊藤四朗が涙ながらにつぶやいた。
「もう1回、三波とコントをやりたかったなア」−−これ以上のねぎらいと供養の言葉はないと思った。

                                    • -

三波伸介