じじぃの「人の死にざま_1375_芥川・也寸志」

芥川也寸志 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E4%B9%9F%E5%AF%B8%E5%BF%97/996
ベストオブクラシック 〜芥川也寸志と戦後日本の作曲家たち〜 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=9UMIWu76IxM
芥川也寸志 映画音楽組曲八甲田山」 Yasushi Akutagawa - "Hakkoda-san" 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=mVtCXGi1TyU
芥川也寸志 ウィキペディアWikipedia)より
芥川 也寸志(あくたがわ やすし、1925年7月12日 - 1989年1月31日)は、日本の作曲家、指揮者。JASRACメンバー。
【来歴・人物】
文豪・芥川龍之介の三男として東京市滝野川区(現・北区)田端に生まれる。母は海軍少佐・塚本善五郎の娘・文。兄は俳優・芥川比呂志。也寸志の名は龍之介が親友の法哲学者・恒藤恭(つねとう きょう)の名「恭」を訓読みし万葉仮名に当て命名された。
1977年から1984年まで、NHKの音楽番組『音楽の広場』に司会として黒柳徹子とともに出演した。『音楽の広場』のほかにも、音楽番組のみならず彼はテレビの司会を何度か務めている(テレビ東京木曜洋画劇場』)。ラジオの分野では1967年より死の前年までTBSラジオ『百万人の音楽』で野際陽子とパーソナリティーをつとめた。ダンディな容貌とソフトだが明晰な話し方で、お茶の間の人気も高かった。
1978年、第1回日本アカデミー賞で『八甲田山』と『八つ墓村』が最優秀音楽賞と優秀音楽賞を受賞した。

                                • -

『知識人99人の死に方』 荒俣宏/監修 角川文庫 2000年発行
芥川也寸志 (1925 - 1989) 63歳で死亡。(一部抜粋しています)
文豪芥川龍之介の三男に生まれる。東京音楽学校(現東京芸大)を1番の成績で卒業後、作曲活動に入る。
昭和25年、日本放送協会25周年記念の作曲懸賞を「交響管弦楽のための音楽」で受賞、後のオペラ「暗い鏡」とともに代表作となる。作曲のほか、「N響アワー」をはじめテレビの司会などでも活躍。反核運動著作権協会の理事長としても精力的に活動した。
自殺した父芥川龍之介の死の影は、当然ながら芥川につきまとい、彼の作品には独特の死に対する深遠な哲学が浮き彫りにされたものが多い。しかし、父親について芥川が口にすることはほとんどなく、引き合いに出されることは極端に嫌がったという。
昭和63年の初夏、肺に見つかったガンを手術、静養ののち仕事を再開するが、11月には東京の国立がんセンターに再び入院、闘病むなしく翌年平成元年、1月31日逝去した。
芥川が死の直前まで意欲を燃やしていた曲があることが判明したのは、死後3ヵ月たってからだった。日蓮宗系列の本門仏立宗から委嘱されていた「いのち」と題されたオーケストラと混声合唱のための曲で、未完の部分は作曲家仲間が補作した。「あの曲の最後の音はどうなったかなあ」と死の1週間前の病床で芥川自身が気にやんでいたこの大作は、5月2日サントリーホールで初演されるに至った。