じじぃの「人の死にざま_227_山口・瞳」

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山口瞳 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
山口瞳(1926年11月-1995年8月)は、日本の男性作家、エッセイスト。
妹の日舞踊家の花柳若奈(本名:栄)はジェリー伊藤の妻。作家で映画評論家の山口正介は息子。
【生涯】
1958年、開高健の推薦で壽屋(現・サントリー)に入社。PR雑誌「洋酒天国」の編集や、コピーライターとして活躍する。ハワイ旅行が当たる懸賞のコピー「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」が代表作。
婦人画報」に連載した『江分利満氏の優雅な生活』で、1963年に第48回直木賞を受賞、同作品は映画化もされた。受賞後しばらくは二足の草鞋を履いたが、「週刊新潮」の伝説的編集者斉藤十一からコラムの連載依頼を受けたことから、文筆業に専念するためにサントリーを退社。
代表作は、「週刊新潮」に1963年から31年間、延べ1614回、死去まで一度も穴を開けることなく連載を続けたコラム・日記の『男性自身』シリーズ、自らの両親の生い立ちを題材とした『血族』(第27回菊池寛賞受賞)、『家族』など。競馬や将棋、野球に造詣が深く、全国の地方競馬場を踏破した『草競馬流浪記』、プロ棋士駒落ちで対戦した記録『山口瞳血涙十番勝負』、プロ野球から草野球まで、野球に関するエッセイをまとめた『草野球必勝法』などの著書もある。
なお、山口の著書の表紙絵、挿絵は、その多くをサントリー時代からの友人である、柳原良平が担当している。
糖尿病を患っていたが、克服。晩年は小説の執筆をやめ、『男性自身』に集中して仕事をしていた。死の直前は肺癌が急速に悪化。本人には告知されず、家族がホスピスへ移すことを相談している最中に突然、状態が急変し、死去。死が急であったため、結果的に、『男性自身』は「アナ空き」がないことになった。

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『巨泉日記』 大橋巨泉/著 講談社 2000年発行 (一部抜粋しています)
ボクが唯一「先生」と呼ぶ人
今日から3日間、南島のクライストチャーチへ主張になる。全部で7店舗あるOKギフトショップのうち、4番目に開店した店がここにある。ただの4番目でなく、カナダから出てオセアニアに進出した最初の店なので、ボクにとっても思い出深い。この店の店長であり、ニュージーランド両店の責任者でもある遠藤泰司君と、どこに店を出そうかと、オセアニア中を旅したことが、つい昨日のように思えるが、すでに12年も前の話になる。月並みな表現だが、光陰矢の如しか。
空港に迎えに来てくれた遠藤夫妻とともにホテルに直行した。いつもは店に寄るのだが、飛行機の中で読みつづけていた本が止められなくて、夕食までの間もむさぼり読んだ。本は先日治子未亡人から送っていただいた『変奇館の主人−−山口瞳、評伝・書誌』(中野朗著、響文社刊)という。
これまでにもたびたび書いたが、山口瞳先生は、ボクがこの世で(医者と教師以外で)「先生」をつける、おそらく唯一の人である。ただし生前は、先生と呼んだことはなかった。先生と呼ばれることがお嫌いだったので、ボク達仲間はみな「瞳さん」と呼んでいた。しかし亡くなられて、先生がボクに与えた影響の強さをますます感じるようになり、必ず先生をつけて呼ぶようにしている。
先生の残した「常に物事を両面から見る」は、ボクの心の中に常にあって、ペンをもつ手に必ず伝わってくる。この本にも随所にその考え方が現れるが、なんと先生はこの考え方をすでに昭和22年当時からお持ちだったと知って驚倒(きょうとう)した。
これは先生が治子夫人にあてた独身時代の恋文に出てくる(山口治子「初公開 山口瞳のラブレター」−−中央公論掲載より引用)。
「(前略)或ひ唯物論と唯心論と区別してもよいのですが、私の心の中では何時でもこの両者が戦ってゐるのです。(中略)私は左翼でも右翼でもない。愛別離の中で一体右でも左でもないところに真実が存在するだろうかと云ってゐるのも夫(ソレ)なのですが、これはどうも私の一生の問題になりさうです。(中略)私のような考へ方、生き方を、生活の原理としてゐる者は一生何にもできないかもしれないけれども、真実のみを愛すると云ふ考へ方は捨てたくないと思ふのです。(原文のまま、ルビ筆者)
昭和22年といえば、敗戦の反動で、ほとんどの文学青年が左翼的に片寄っていた時代である。あの時代に「将来の社会革命」を信じながら、一方では保守反動と呼ばれた高橋義孝氏を人生の師とすることに、瞳先生はなんの矛盾もためらいもなかった、と中野氏は書いている。「いいものはいい」という考え方は、幸いボクも若いころからもっていたので、今後死ぬまで持ち続けたいと思っている。
                                  (1月18日)

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