じじぃの「人の死にざま_691_山口・良」

山口良忠 - あのひと検索 SPYSEE
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闇買いを拒否し餓死を選んだ二人
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山口良忠 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
山口良忠は日本の裁判官。佐賀県出身。太平洋戦争の終戦後の食糧難の時代に、闇米を拒否して食糧管理法に沿った配給食糧のみを食べ続け、栄養失調で死亡した事で知られる。
【来歴・人物】
1913年、佐賀県杵島郡白石町に、小学校教師の長男として生まれる。鹿島中学校(旧制)・佐賀高等学校(旧制)・京都帝国大学を卒業。大学院に進み宮本英脩・佐伯千仭に師事、高等文官試験司法科試験に合格、判事となる。1942年に東京民事地方裁判所に転任後、1946年10月に東京区裁判所の経済事犯専任判事となる。この部署では、主に闇米等を所持していて食糧管理法違反で検挙、起訴された被告人の事案を担当していた。
食糧管理法違反で起訴された被告人を担当し始め、配給食糧以外に違法である闇米を食べなければ生きていけないのにそれを取り締まる自分が闇米を食べていてはいけないのではないかという思いにより、1946年(昭和21年)10月初め頃から闇米を拒否するようになる。
1947年8月27日に地裁の階段で倒れ、9月1日に最後の判決を書いたあと、やっと故郷の白石町で療養する事となる。同年10月11日、栄養失調に伴う肺浸潤(初期の肺結核)のため33歳で死去した。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
山口良忠(やまぐちよしただ) (1913-1947) 33歳で死亡。 (一部抜粋しています)
東京地裁判事であった山口は、太平洋戦争敗戦後、裁判官として闇米を買うことを拒否して栄養失調になり、昭和22年8月27日、東京地裁で倒れた。受診の結果、肺浸潤(しんじゅん)の宣告を受けた。それでも彼は9月1日まで登庁して担当の事件に判決を下し、9月7日にやっと郷里の佐賀県白石町に療養のために帰郷したが、もう手おくれであった。
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10月11日午後2時半、夫人が新聞を持って来て、それを受けとろうとした判事の手がふいにぱたりとおちたかと思うと、彼は死んでいた。
残された感想集には、こんな文章が書かれていた。
「善人の社会での落伍者は悪人であるが、悪人の社会での落伍者は善人である」

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