じじぃの「人の死にざま_223_石川・達」

あの人に会いたい 石川達三 SPYSEE
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青春の蹉跌 萩原健一ショーケン) CM 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=OwVEa91kJv8&feature=related
石川達三 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
【人物】
秋田県平鹿郡横手町(現横手市)に生まれ。
ブラジルの農場での体験を元にした『蒼氓』で、1935年に第1回芥川龍之介賞を受賞。1936年に結婚。社会批判をテーマにした小説を書くが、1938年『生きてゐる兵隊』が新聞紙法に問われ発禁処分、禁固4ヵ月執行猶予3年の判決を受ける。
アメリカの悲劇と青春の蹉跌】
石川の『青春の蹉跌』文庫解説の青山光二はセオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』との類似性について、「この作品の主題は、シオドー(青山はこう記している)・ドライサーの『アメリカの悲劇』を想い出させる」「似ているのは筋立ての基本だけだ。(略)きわめて独自な手法でそれを描くことによって、日本の現代社会の歪みをみごとに照射した、創意あふれる快作である」と述べている。また、猪俣勝人は「かりにも厳正なる日本文壇の代表的作家たる石川達三が人のふんどしで相撲をとるとは考えられない」と述べつつ「ぼくにはついに作者がなぜドライサーと同工異曲のストーリーを狙ったのかわからなかった」と締めくくっている。
【主な作品】
・『人間の壁』(1958年(昭和33年)〜1959年(昭和34年)、新潮社。のち、新潮文庫。のち、岩波書店岩波現代文庫)。ISBN 4-00-602038-4 C0193)
・『僕たちの失敗』(2005年放送のテレビドラマ『契約結婚』の原作)
・『青春の蹉跌』
・『金環蝕』

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『青春の蹉跌』 あらすじ
アメフト部のスター選手の賢一郎は、かつて学生運動に身を投じたこともあったが今では法学部学生としてエリートの階段を着実に昇りつつあった。名家の令嬢との婚約も控え、社会的地位と財産をも手中にしていたが、家庭教師先で知り合った教え子と遊びの関係を持ったことから歯車が狂っていく。シラケきった社会、70年代という時代の閉塞感、賢一郎は繰り返し独り言のように呟く、「エンヤートット、エンヤートットー」。賢一郎にとって既に教え子は邪魔な存在にしか過ぎなかった・・・・

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
石川達三 (1905-1985) 80歳で死亡。 (一部抜粋しています)
石川達三は、昭和50年70歳のとき、日本ペンクラブ会長として、「言論の自由には、譲れない自由と譲れる自由がある。ポルノを書く自由などなくてもいい」と発言して、若手の会員から攻撃を受けた。
かねてから石川の思想は、反骨に見えて実は常識的なもので、それが彼を新聞小説作家として成功させたゆえんだといわれ、この論などがその好例だと評されたが、しかし日本では、作家として「常識的」なことをいうのは、やはり1つの反骨である場合もあるのである。
もっとも彼は、この件にかぎらず、小説の上でも評論の上でも日常の交際の上でも、あらゆることに一貫して憤(いきどお)れる人物であった。
「(昭和58年)夏の末から秋にかけて私は2ヵ月以上も入院した。私は要心深く暮らしていたはずである。なぜ病気になったのかよく解らない。睡眠不足が続いて、もともと睡眠剤の嫌いな私が或る夜1錠だけ薬を飲んだ。すると翌朝足が立たなくなった」
彼は入院した。入院してから、医者に、看護婦に、検査に、自分の身体の異変に、徹頭徹尾彼は憤りつづける。
「私は左の足の感覚が無くなっていた。何の為だか解らない。右手の薬指と小指がしびれて居た。自分では覚えのない事ばかりだ。味覚は全くなくて、水が飲めない。ほとんど1ヵ月水を飲まなかった」
医者は胃潰瘍と診断するが、彼は信じない。自分が胃潰瘍になるはずがない、と断定する。
かかりつけの主治医宮林太郎は言う。「医者にいわせると大変扱いにくい医者泣かせの患者の1人であった」
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「退院の時に病院は大袋一杯の薬を持たせてくれたが、私は中身を見ないで皆捨ててしまった。1週間毎に通院する約束であったが、ついに一度も行っていない」
退院後「最後の日記」で彼はこんな感想を書きつける。
「私はたくさんの仕事をしたようであるが、要するにみな虚しかったような気もする。夏目漱石志賀直哉などの文豪が結局何を書いたかと言うと、みな虚しかったようにも思われる」
「私の死はもう眼の前にせまっているが、私は死について何も考えていない。考える事の興味がない。多くの人が死について色々考えているが、すべて無駄だと私は思っている」
そして昭和60年1月11日に、
「私は死期が迫っていて、今晩死んでも当たり前だと思っている。何の感慨もない。夢の如しと人は言うが私は永かったと思う。決して夢ではなかった」
と、書き、翌12日、「寒い冬だ。春が待ち遠しい」と書いたのが絶筆となった。
10日後の1月21日、達三は朝食後吐血して、救急車で目黒の東京共済病院に運びこまれる。宮医師は記す。
「達三は救急車の中でも血を吐き続け、それと同時に、下血もかなり非道(ひど)かった。つまりこれは、いわゆる失禁といわれる状態であり、悪い徴候であった」
達三は血便にまみれて、最後の病院へ運ばれていったのである。
「意識が朦朧(もうろう)としていて、目をあけていても見ているのではなく、ただぼんやりとした視線を車の天井に向けている。しかし、その目にはもう力はなく、その視線がさまよいながらぼくの方へむいて、じっとぼくの顔をみている。誰だろうというような目つきである。頭がベッドからくずれ落ちそうなので、ぼくは左手でその頭をささえ、右手に洗面器をもって、彼の口の中の血の塊りが出来るだけ無理のないように流れ落ちるのを助けていた。そのとき、ぼくは達三の肉体から死臭を嗅いだのである」
石川達三はやがて肺炎を併発し、1月31日午前5時2分、消えいるように息をひきとった。
「人間は誤解されたまま生き、誤解されたまま死んでゆく」
                    −−石川達三『私ひとりの私』−−

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