じじぃの「人の死にざま_528_獅子」

獅子文六 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E7%8D%85%E5%AD%90%E6%96%87%E5%85%AD/47300/
獅子文六
http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sisibunroku.html
獅子文六 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
獅子文六は、日本の小説家、劇作家、演出家。本名は、岩田 豊雄。演劇の分野では本名で活動した。日本芸術院会員、文化勲章受章。号は牡丹亭。
弟の岩田彦二郎は札幌グランドホテル社長。
【生涯】
横浜弁天通の岩田商会に生まれる。実父は元中津藩士で、福澤諭吉に学んだのち絹織物商を営んでいたが、文六9才のおりに死去する。横浜市立老松小学校から慶應義塾幼稚舎編入学。普通部を経て、慶應義塾大学理財科予科に進学するも中退。
フランスに渡って演劇を勉強する。
1937年、岸田國士久保田万太郎と共に劇団文学座を創立。「文学座」の命名は岩田のものによる。岸田、久保田と共に文学座幹事(のちに顧問)を務め、岸田、久保田がこの世を去った後は、文学座の最後の精神的支柱として、文学座座員はもとより、文学座を脱退した劇団雲、劇団NLTの面々からも信頼を一手に受けた。
小説家としても活躍、1942年には、真珠湾攻撃の「九軍神」の一人を描いた『海軍』で朝日文化賞受賞。また戦前より獅子文六の筆名で数多くのユーモア小説を書き、『娘と私』『大番』『箱根山』などの連載小説も読み継がれ、『娘と私』はNHK朝の連続テレビ小説になった。
また、多くの作品がラジオドラマ化、テレビドラマ化、映画化などがされている。1951年には『自由学校』が松竹(渋谷実監督)と大映吉村公三郎監督)で競作映画化、1955年には『青春怪談』が日活(市川崑監督)と新東宝阿部豊監督)で競作映画化されるほど、人気を博した。
1963年、日本芸術院賞受賞、64年芸術院会員、69年文化勲章受章、同時に文化功労者
近年は著書のほとんどが絶版となり、生前の影響力・人気・知名度からは意外なほど「忘れられた作家」となっていたが、中野翠小林信彦らが文六の再評価を促す文章を発表。また、2009年には初の伝記『獅子文六の二つの昭和』が刊行された。
『自由学校』
「自由学校」とは戦後の自由化された家庭・社会のことを指す。南村五百助と駒子の夫婦は、五百助が辞職して家出したことを切っ掛けに、それぞれ別の道を歩み、様々な人々と交流・交際していくことになる。
『自由学校』は、朝日新聞に1950年5月26日〜12月11日に連載された獅子文六による長編小説、及びそれを原作とした映画・ドラマ化作品である。

                                • -

『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
獅子文六(ししぶんろく) (1893-1969) 76歳で死亡 (一部抜粋しています)
かっては『南の風』『海軍』『自由学校』『大番』など最上質のエンターテイメントを書いた獅子文六は、昭和42年に74歳で「読売新聞」に『但馬太郎治伝』を連載したが、その出来ばえは小林信彦が「古い痛んだレコードでシャンソンを聞くようなもので」「同じ記述、説明の繰り返しが多く、敬愛する『金色青春譜』の作者が、こんなにナマったのかと悲しく思いながら最後まで読んだ」と評したようなものであった。
文六は、翌昭和43年2月半ばの大雪のふった翌日、午前中、テーブルに向かっていて、突然背中に締め付けられるような痛みを感じ、医者の来診を請い、胆嚢炎の診断を受け、さらに検診の結果、動脈瘤があるという診断を受けた。爾来、次第に身体が弱って来た。
9月に彼はこんなことを書いた。
「・・・・人間は、ある程度以上の激痛に襲われれば、失神するようにできてるのだ。あまり考えない方が、いいかも知れない」
「・・・・病気の正体を知ろうとしたり、行き先を予測したりしても、何になるのか。要するに、私は苦しみ、そして死ぬ−−それだけのことだ」
「・・・・しかし、生きる妄執がなければ、自若として毎日を遅れそうなものだが、そうはいかない。天命を待つ人とはおよそ遠い。クヨクヨした取越苦労に、追われてる」
「・・・・私は、無限の暗黒の中を、無限に落下していく自分を、死後の姿として、若い時に、よく空想したが、その虚無を、好もしく思ったのだろう。しかし、そんなことは、若い時の甘っちょろい考えに過ぎない。人間は虚無なんて、好都合な認識を許されていない」
「・・・・マグロの刺身がなまぐさくて食べられなくなったのだから、是非もない。(中略)合掌ぐらいして呼吸をひきとりたいものだが、肉体の苦痛に弱いから、動脈瘤破裂の際には、七転八倒して、それどころではあるまい」(遺稿『手記』より)
約1年3ヵ月後の昭和44年12月13日、彼は死んだ。死因は脳出血であった。

                                • -

獅子文六 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&um=1&ie=UTF-8&source=univ&sa=X&ei=qMllTbiSOpHMrQfar9zaCg&ved=0CC4QsAQ&q=%E7%8D%85%E5%AD%90%E6%96%87%E5%85%AD%20%E7%94%BB%E5%83%8F&tbs=isch:1