岩崎弥太郎 - あのひと検索 SPYSEE
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岩崎弥太郎生家 動画 YouTube
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岩崎弥太郎 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (一部抜粋しています)
岩崎 弥太郎は、日本の実業家。三菱財閥の創業者で初代総帥。明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物である。諱は敏(のち寛)、雅号は東山。別名を土佐屋善兵衛。岩崎彌太郎とも書く。
【生涯】
土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人・岩崎弥次郎と美和の長男として生まれた。
慶応3年(1867年)、後藤象二郎に藩の商務組織・土佐商会主任・長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事する。坂本龍馬が脱藩の罪を許されて亀山社中が海援隊として土佐藩の外郭機関となると、藩命を受け隊の経理を担当した。記録上確認出来る弥太郎と龍馬の最初の接点はこの時である。弥太郎と龍馬は不仲であったとも言われるが、弥太郎は龍馬と酒を酌み交わすなどの交流があった様子を日記に記しており、龍馬が長崎を離れる際には多額の餞別を贈っている。
明治元年(1868年)、長崎の土佐商会が閉鎖されると、開成館大阪出張所(大阪商会)に移る。翌、明治2年(1869年)10月、大阪商会は九十九(つくも)商会と改称、弥太郎は海運業に従事する。このころ、土佐屋善兵衛を称している。廃藩置県後の明治6年(1873年)に後藤象二郎の肝煎りで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手し海運業を始め、現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に九十九商会を改称した「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立。三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となる。この時、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて三菱のマークを作ったことはつとに有名である。三菱商会では海援隊や士族出身の社員に対しても、出自に関係なく徹底して商人としての教育を施した。
明治11年(1878年)、紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺され、明治14年(1881年)には政変で大隈重信が失脚し、弥太郎が強力な後援者を失うと、大隈と対立していた井上馨や品川弥二郎らは三菱批判を強める。明治15年(1882年)7月には、渋沢栄一や三井財閥の益田孝、大倉財閥の大倉喜八郎などの反三菱財閥勢力が投資し合い共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗した。三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは2年間も続き、運賃が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられるというすさまじさだった。また、パシフィック・メイル社やP&O社などの外国資本とも熾烈な競争を行い、これに対し弥太郎は船荷を担保にして資金を融資するという荷為替金融(この事業が後の三菱銀行に発展)を考案し勝利した。こうしたライバルとの競争の最中、明治18年(1885年)2月7日18時30分、弥太郎は51歳で病死した。弥太郎の死後、三菱商会は政府の後援で熾烈なダンピングを繰り広げた共同運輸会社と合併して日本郵船となった。このような経緯から日本郵船は三菱財閥の源流と言われている。
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『週刊現代』 4/3号
坂本龍馬と岩崎弥太郎を大いに語ろう−−作家 出久根達郎 × 『龍馬伝』時代考証 東京学芸大学教授 大石学(対談) (一部抜粋しています)
出久根 一方の弥太郎は土佐藩の経済官僚であり続けた。しかし、龍馬ほど文章を残していないのが残念ですね。少年時代は謎に近いぐらい知られていない。『龍馬伝』を観ると、あれほどに汚い生活をしていたのかなと思います。
大石 やはり龍馬とコントラストを付けたかったようですね。竹で鳥籠を作って売ったというのは、『岩崎弥太郎伝』にある。ただ、背中一杯に背負って売っていたかは誰にもわからない。
出久根 弥太郎の場合、窮乏生活から抜けるため、藩に留まり出世していこうというのが最初の夢だったのではないでしょうか。
大石 現実主義者ですね。
出久根 吉田東洋の塾に入りますが、東洋は土佐藩参政(家老の別称)ですから、その塾に入れば出世できると思ったのかもしれない。
大石 一方の龍馬は世俗的な出世は頭にない人。『龍馬伝』のオープニングに、「Idealist」と出てくるように理想主義なところがある。弥太郎はリアリスト。まさに対極ですね。それにしても、弥太郎はどこであの経済感覚を身につけたのか。『岩崎弥太郎伝』では奉行所を批判して入れられた獄中で同室の人に教わったとありますが、事実かどうかは不明です。江戸に修学した時も、学んだのは朱子学者の安積良斉のところですから、そこで商法を身に付けたとは思えない。
出久根 だから『龍馬伝』の脚本家は、弥太郎がどこで経済人として目覚めるかを描くのは苦労するのではないでしょうか。いまのところ、弥太郎のエピソードはあまりいいイメージがないですから。
大石 そうですね。弥太郎に関しては、本当に根っこからイメージを崩して、新たな弥太郎像を作りあげる必要がある。
出久根 成功した人ですからね。弥太郎は。成功した人間は、浪漫や葛藤など心の部分ではなく、成果が描かれることが多いため、なかなか読者や視聴者の興味が向かないものなんです。
大石 現実主義者の弥太郎だからこそ、あの厳しい状況から、海運王にまで上りつめた。それは称えられていいと思いますね。
出久根 逆に、龍馬のような中途で挫折した人間には興味が湧くものなんです。龍馬は悪い部分が一つも出てこない。中江兆民が龍馬は梅毒だったと書いていますが、当時では男の勲章ですから。
出久根 龍馬と弥太郎はいつ出会ったのでしょうか?
大石 資料的に確認されるのは、龍馬が暗殺される年、慶応3年ですね。
出久根 長崎で、立場の異なる2人が出会って酒を飲み、意気投合する。それがわからないんですよ。龍馬は弥太郎のことをただの薩摩藩の官僚と見て、重きを置いていなかったと思うんです。お金が必要だったから、長崎の責任者である弥太郎を懐柔しようという思いはあったはず。では弥太郎は龍馬の生き方になぜ共鳴したのか。
大石 その謎は解けていませんが、弥太郎の日記を読むと、実に楽しそうに酒を酌み交わしていますね。
出久根 「海援隊をこうしたい」というビジョンを弥太郎に話したのではないかと思うんです。つまり、龍馬は「海運」の理想を語った。しかも、世界中と交易する実益的な理想を語ったのではないかと。弥太郎も龍馬が説く話に魅了された。おそらく、のちの三菱へ向かうヒントになったのではと思います。
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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
岩崎弥太郎(いわさきやたろう) (1834-1885) 51歳で死亡。 (一部抜粋しています)
土佐の郷士(ごうし)の子として生まれ、一代にして大三菱の基礎を築いた岩崎弥太郎は、三菱の海運独占をにくんだ政府筋が作らせた共同運輸会社との間の死闘に最後の2年間を捧げた。
若いころ1日60キロ走ったことがあるというほど、弥太郎は生来頑丈な体格の持ち主であったが、一方で斗酒なお辞せぬ大酒豪であった。晩年はウイスキーに替えたらしい。
上記の三菱郵便汽船と共同運輸の、両者共倒れになりかねぬ激烈な競争中の明治17年夏ごろから、彼は食欲不振におちいり、秋には何度か昏倒し、しばしば位から一升、二升の胃液を吐くようになった。
しかも彼は病床で会社の要務を聞き、指令したが、胃中にゴム管を入れて胃液を吸い出されるときは、「若いころ台風の海で船酔いしたことがあるが、あれにまさる苦しみだ」と悲鳴をあげた。
病名は胃ガンで、彼は「おれは男だ。いかなる病名を聞かされても驚きはしない。ただ治る病気か治らん病気か、それだけ教えてくれ」と医者の池田謙斉に訴えたが、当時名医として知られていた池田は、最後まで病名を打ち明けなかった。
18年元旦には、病床で正装し、社の幹部30余名の年賀に応えたが、病状次第に悪化し、2月4日には100回も吐しゃし、発声も困難となった。
そして7日、長男久弥、弟弥之助に三菱の将来について毛利元就の故事をひいてからくも遺言を述べ、「腹の中が裂けるようだ。もう何もいわん」と口をとじ、午後6時30分絶命した。
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【次代への名言】経営者列伝編(6) 2009.12.20 MSN産経ニュース
■「人間は一生のうち、必ず一度は千載一遇の好機に遭遇するものである」(岩崎弥太郎)
乱世の雄・岩崎弥太郎は幕末・維新期という「千載一遇の好機」に遭遇した。と同時に、多くの困難にも直面した。最初の試練は、「人を使うこと」だった。
最下級の武士出身。独立独歩の性格と大言から、敵も多かった。最初の社員は故郷・土佐出身者が主流だった。ために海運会社を興した弥太郎が「国内を制し、海外勢を駆逐するのだ」と檄(げき)を飛ばしても、“過去”を知るゆえに面従腹背の社員が少なくなかった。
現状打破のため、弥太郎は外部から若く、優秀な人材を次々と迎え入れ、トップダウンを徹底させた。「当商会は会社の体を成すと雖(いえど)も、其(そ)の実全く一家業にして(中略)故に会社に関する一切の事、社長の特裁を仰ぐ」。当時の社則である。すべて世界と闘うためだった。
こうして弥太郎はまず国内競争に打ち勝ち、次いで米国、英国のライバル社を退ける。この間、熾烈(しれつ)な運賃の値下げ合戦を完遂するため、自分の給料を半減したこともある。「岩崎君は困難が増加するに従ひ、その精力はますます活動した。これが多くの難局を乗り切った所以(ゆえん)で、岩崎君の岩崎君たるところだ」。盟友、大隈重信の弥太郎評である。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091220/acd0912200302000-n1.htm
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